第5話 静かな町の夜
夜は、音を置き去りにするように訪れた。
宿の部屋でランプに火を灯すと、淡い橙色の光がゆっくりと広がる。木の壁に染みついた油の跡、何度も塗り直されたであろう床板、角の丸くなった机。どれも古いが、荒れてはいない。人の手が入り続けてきた場所だ。
ベッドに腰を下ろすと、小さく軋む音がした。だが、その音はすぐに消え、余韻すら残さない。
「……悪くないな」
独り言が、自然にこぼれた。
町はおかしい。それは間違いない。昼間から感じていた違和感は、夜になってよりはっきりと輪郭を持ち始めている。だが、それは「危険」とは違う。恐怖ではない。敵意でもない。例えるなら、歓迎されていない場所に、静かに立っている感覚。追い払われるわけでも、拒絶されるわけでもない。ただ、そこに居続ける理由が見当たらない。
窓の外を見る。街灯は灯っている。月も雲に隠れてはいない。それなのに、光が町に溶け込まず、地面に貼り付いたままだ。
通りを歩く人影はほとんどない。家々の窓から漏れる灯りも、数えるほどしか見えなかった。
遠くで、何かが落ちるような音がした気がした。だが、確信できない。音そのものが、途中で削ぎ落とされたように消えていく。
「……山の夜の方が、よほど賑やかだな」
山では、夜こそ世界が動き出す。獣の足音、虫の羽音、風に揺れる枝。危険も多いが、そこには確かな「生」があった。
だが、この町の夜は違う。生きているのに、眠っている。いや――眠らされている、と言った方が近い。
コンコン、と控えめなノックが扉を叩いた。
「……起きてる?」
少女の声。
「起きてるよ」
扉が少しだけ開き、彼女が顔を覗かせる。ランプの光を受けた表情は、昼間よりもずっと硬い。警戒と集中が、はっきりと浮かんでいた。
「少し、いい?」
「どうぞ」
少女は部屋に入り、静かに扉を閉める。椅子には座らず、壁に背を預けたまま、腕を組んだ。
「……やっぱり、この町変」
「今さらだな」
「今さらだから言うの」
声は低く、抑えられている。壁越しに聞かれることを、意識しているのだろう。
「外、見た?」
「見てた」
「人、少なすぎ」
「夜だからじゃない?」
「夜でも、もっといる」
即答だった。
「見張り、巡回、酔っぱらい。普通は、何かしらいる」
言われてみれば、その通りだ。町の規模を考えれば、静かすぎる。
「音もない」
少女は続ける。
「虫も、獣も、風も。全部、控えめすぎる」
「……昼間も、そんな感じだったな」
「昼は“ズレてた”。夜は“止まってる”」
言葉の選び方が、妙に的確だった。
「こういう場所、前にも見たことがある」
「どこで?」
一瞬、少女は口を閉じた。言うべきか迷っているようだった。
「……詳しくは言えない。でも」
視線を落とし、ゆっくりと言う。
「“何か”に、距離を取られてる場所」
「距離?」
「嫌われてる、でもいい」
昼間の言葉が、再び思い出される。
――この町、嫌われてる。
「理由は?」
「分からない」
はっきりとした否定。
「分からないけど、空気が似てる。嫌な感じじゃない。ただ……」
「ただ?」
「ここにいると、世界が一歩引く」
胸の奥が、わずかにざわついた。
「ねえ」
「何?」
「旅しててさ……」
少女は、こちらを見る。
「おかしいって、言われたことある?」
思わず、少し笑ってしまった。
「ないよ。世間知らずとは言われるけど」
「そうじゃなくて」
「運がいい、とか?」
軽い冗談のつもりだった。だが、少女は笑わなかった。
「……それ」
「え?」
「それが、一番近い」
沈黙が落ちる。
ランプの火が、小さく揺れた。しかし風は吹いていない。
「今日も」
少女が言う。
「魔獣、襲ってこなかった」
「偶然だろ」
「三匹いた」
「……そうだな」
「しかも、引いた」
視線が鋭い。
「普通、ない」
「……たまたま臆病だったんじゃ」
「じゃあ、村の井戸は?」
「……」
「噴水は?」
「……」
「畑は?
言葉が、出てこなかった
「町全体が、おかしくなってる」
少女は、静かに言う。
「そして、その中心に、あんたがいる」
胸の奥が、少しだけ重くなる。
「誤解しないで。あんたが悪いって言ってるわけじゃない」
「……なら、何だ?」
「因果」
短い一言。
「理由は分からない。でも、繋がってる」
否定しようとした。だが、感覚がそれを止めた。確かに、自分がこの町に来てから、色々起きている。だが、それは「悪いこと」ではない。
「……明日、出よう」
昼間と同じ言葉。
「長居する場所じゃない」
「分かった」
即答すると、少女は少しだけ目を見開いた。
「いいの?」
「ここは落ち着かない」
「……だよね」
それだけで、会話は終わった。
少女は部屋を出ていく。足音は、廊下に溶けるように消えた。
再び、静寂。
ベッドに横になり、目を閉じる。意識は、驚くほど早く沈んでいく。
夢は、見なかった。ただ、眠りの底で、誰かに“見られている”感覚があった。敵意はない。善意でもない。評価でも、監視でもない。
――確認。
そんな言葉が、なぜか浮かぶ。それが何を意味するのか。自分が、何を確かめられているのか。
この町が、なぜ“嫌われている”のか。
まだ、何一つ知らなかった。
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