第4話 町は少しだけ歪んでいた

街道の先に町の輪郭が浮かび上がったとき、胸の奥に溜まっていた緊張が、ゆっくりとほどけた。


 遠目にも分かるほど、きちんとした外壁だった。石造りの壁はところどころ欠けているが、応急ではない補修の跡がある。長い年月を経ても、壊れたまま放置されてはいないという証拠だ。見張り台には人影があり、門も半開きではなく、きちんと閉じられている。


 生きている町だ。それだけで、十分だった。


「助かったな……」


 思わず漏れた声は、独り言に近かった。野営が続いていたせいか、屋根のある場所、人の気配、それだけで気持ちが軽くなる。


 隣を歩く少女からの返事はなかった。


 その代わり、町全体を見渡すように視線を動かしている。外壁の継ぎ目。空の色。町の上を流れる雲の速さ。風向き。門の軋み。何かを探している、というより、何かが“欠けている”ことを確認しているようにも見えた。


 門番の衛兵は二人。一人がこちらに気づき、もう一人に小さく合図を送る。


「旅の方ですか?」


 事務的な問いかけだった。


 こちらが答える前、衛兵の視線が一瞬だけ僕の顔に留まった。ほんの一瞬だ。だが、視線が滑る前に、わずかな間があった。


「はい。南へ向かう途中で」


 それだけで、通行を許された。通行証も、荷物検査もない。


 門をくぐった直後、少女が声を落とす。


「……今の、分かった?」

「何が?」

「衛兵、あんたを見て一瞬止まった」

「そう?」


 言われなければ、気づかなかった程度だ。理由も思いつかない。そもそも旅人を見ても何も不思議ではない。


「気のせいじゃない? 衛兵だから、旅人を確認しただけだろ」

「……ならいい」


 納得したわけではなさそうだったが、それ以上は言わなかった。


 町の中は、思っていたより静かだった。露店は並んでいる。商人も声を出している。だが、活気というものがない。音はあるのに、重ならない。人の動きが、どこか噛み合っていなかった。


「安いよー……」

「今日だけの特価で……」


 呼び声は届いている。だが、人の足は止まらない。立ち止まっても、視線は商品を見ていない。


 通りを歩くだけで、細かな会話が耳に入る。


「また売れ残りか」

「今日は運が悪い」

「最近、ずっとだ」


 同じ言葉が、違う口から繰り返される。まるで合図のように。少女は何も言わず、それらを聞き流している。ただ、歩く速度がわずかに遅くなっていた。


 露店の一つで足を止めた。干し肉を売る商人だ。


「すみません」

「……ああ、いらっしゃい」


 返事はあったが、目が合うまでに一拍あった。こちらを見るのを、忘れていたような間。


「なんだか、人が少ないですね」

「……そう見えるか」


 商人は苦笑した。


「人はいる。だが、買わん」

「不景気ですか?」

「不景気なら、理由が分かる」


 男は一瞬、言葉を切った。


「理由がないんだ」


 それ以上は語らず、肉を包み始めた。その手つきは慣れているのに、どこか力が入っていない。


 町の中央、噴水広場に出る。


 噴水は止まっていた。石像の口から水は落ちず、代わりに乾いた音だけが響く。装置自体は新しい。壊れているようには見えない。


「また止まったのか」

「昨日直したばかりだぞ」


 技師たちが装置を囲んでいる。


「魔力は来てる。だが流れが不安定だ」

「……原因が分からん」


 少女は噴水を見つめたまま、動かない。


「壊れてるんですか?」

「壊れてはいない」

「だが、動かん」


 噴水は壊れていないのに動かない。


 それが、この町の状態そのものに思えた。


「……ねえ」


 少女が小さく呼ぶ。


「この町、昨日から急におかしくなった感じ、しない?」


「昨日のことは知らないからな」


「でも、“急に”って感じがする」


 確かめようがない。だから、偶然だと言った。


 宿を探して通りを外れる。路地に入ると、空気が少し重くなる。


 宿屋の看板は傾き、釘が一本抜けかけていた。だが、倒れるほどではない。


「空いてますか?」


「……ええ」


 女主人は、こちらを見るなり一瞬だけ目を見開いた。何か言いかけて、飲み込んだようだった。


「お二人で?」


「別々で」


 その答えに、女主人はほっとしたように息を吐いた。


 部屋は清潔だ。だが、窓の外の通りには人影が少ない。食堂も同じだった。客は三人。皆、黙って食事をしている。


「最近、客が少なそうですね」


「……ええ」


 給仕の女性は、言葉を選ぶ。


「この町、嫌な感じがするって言う人が急に増えて」


「嫌な感じ?」


「理由は分からないんです。ただ……」


 それ以上は言わなかった。


 午後、町を歩く。




 武具屋では、店主が刃を見つめて唸っている。


「研ぎは完璧だ。だが、切れ味が戻らん」


 薬屋では、保存薬が変色していた。


「管理はしている。なのに、傷む」


 神殿では、人々の背が低く見えた。


「最近、加護が弱い」

「祈りが届かない」


 外に出ると、少女が立ち止まり、呟いた。


「……この町、嫌われてる」

「嫌われてる?」

「何かに」


 その時、ドンッと町外れから大きな音がした。


 馬車が横転していた。御者は軽傷だったが、顔色が悪い。


「急に馬が暴れた」

「理由は?」

「分からん……」


 宿へ戻る道すがら、少女は言った。


「明日、早く出よう」

「分かった」

「理由は聞かないで」


 夜。町は静まり返っている。


「……運が悪い町だったな」


 それだけだった。


 町が拒んでいることも。

 拒まれている理由も。

 そして、その理由が自分に関係していることも。


 まだ、何一つ知らなかった。


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