第一章 Trace -トレース-
第一話
――全財産を、
僕が成人したときに、伝えられた言葉だ。
父が遺した言葉だと。
あっけないほどに、簡素で、残酷な響き。
「坊ちゃん……坊ちゃん、朝ですよ」
「ん……」
毎朝、石ノ
重いまぶたを開け、白い天井をぼんやりと見上げる。
絹のシーツの感触、朝の光。どれも過剰に整いすぎていて、息が詰まりそうだった。
食堂に降りれば、銀の食器と香ばしいパンの匂いが出迎える。
毎朝。
毎朝。
繰り返される、息苦しいほど整った日常。
僕には、家族がいない。
両親は、とうの昔に殺された。
――けれど、興味がなかった。
だって、二人の顔すら思い出せない。
幼すぎたせいなのか、それとも、思い出すほどの温もりが最初からなかったのか。
わからない。
それでも、「今後のこと」は面倒だと思った。
跡取りだの、財産だの、誰がどう動くだの――息をするだけで誰かの金の匂いがついてくる。
大学生の僕にそんなものを背負えというのは、ただの嫌がらせだ。
父の遺言のせいで、途方もない金と責任を押しつけられた。
だから、ほとんどのことは父の側近たちに丸投げしている。
僕はただ、平穏に生きたいだけだった。
「坊ちゃん。今日からですよ。覚えておいでですか?」
「何が?」
「今日から坊ちゃんに護衛がつきます。――裁判官の方です」
「……。あぁ、なんか聞いたような、聞いてないような」
その言葉を聞いた瞬間、胃の奥が重く沈んだ。
護衛、なんて。息苦しい存在がまた増える。
僕の命が狙われているらしい――魔女に。
“らしい”というのは、結局噂の域を出ない。
脅迫状が届いたわけでもない。
それでも周囲は、僕を危険の中心に据えたがる。
正直、どうでもよかった。
殺されれば、未来の心配もいらないから。
「……ああ、噂をすれば影ですね。裁判官の方が到着されたようです」
玄関のチャイムが鳴った。
石ノ宮に背中を押され、重い扉を開ける。
そこに立っていたのは、僕の想像とはまるで違う男だった。
「初めまして。裁判官の
穏やかな声だった。
低く落ち着いていて、まるで静かな水面に石を落としたときのように、言葉が胸の奥に広がっていく。
差し出された手は白く、指先まで神経の行き届いた仕草だった。
一瞬、どう返せばいいのかわからず、僕はただその手を見つめていた。
――裁判官。
ニュースや街の掲示板でしか見たことのない存在。
彼らは、違法に魔術を使う者――“魔女”と呼ばれる人間たちを取り締まる特別な職務に就いている。
魔術が社会に根づいて久しいこの国では、魔女は人々の生活に自然と紛れ込んだ犯罪者だった。
人を癒す力にも、壊す力にもなり得るその術を、正しく使わせるための歯止め――それが、裁判官。
「……どうも。よろしくお願いします」
歳が近い。
それだけで、やりにくい。
ずっと年上のほうがまだ距離を保てるのに。
聞けば、彼は四六時中僕の傍につくという。
大学にも、屋敷の中にも。
監視みたいなものだ、と息を吐く。
石ノ宮の仕業だと聞いて、納得はしたけれど。
「必ず、私が貴方を護りますので」
その言葉に、胸の奥がかすかに揺れた。
「……べつに、いいのに」
「……?」
彼の瞳が、僕を見つめる。
不思議そうに見つめるその眼差しに、逃げたくなった。
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