大波の彼方

七十二歳の青春

時は流れ、天保(てんぽう)二年の春が訪れていた。


江戸の町は、桜の開花を待ちわびる浮き足立った空気に包まれている。

隅田川の土手を行き交う人々の装いも軽やかになり、どこからか三味線の音色が風に乗って聞こえてくるような、のどかな昼下がり。


だが、本所(ほんじょ)南割下水(みなみわりげすい)の一角にある長屋だけは、相変わらず世間の暦とは無縁の時間が流れていた。


「……先生、また増えてやしませんか?」


吉治は、呆れ果てた声を出した。

目の前に聳(そび)え立つのは、ゴミの山である。

数年前、初めてこの「魔窟」を訪れた時も酷かったが、今の惨状はその比ではない。

描き損じの反故紙(ほごがみ)、破れた筆、絵の具のついた布切れ、そして食べ散らかした食器の残骸。それらが地層のように積み重なり、天井に届かんばかりの勢いで空間を圧迫している。

もはや「部屋」ではない。ゴミの中に、かろうじて人が座れる窪みがあるだけの「巣穴」だ。


「うるせぇ。……そこは資料だ、触るな」


ゴミの山の奥から、野太い声が響いた。

声の主は、その巣穴の主、葛飾北斎である。

数年前に中風(ちゅうぶ)で倒れ、再起不能とまで言われた老人。

だが今、吉治の目の前にいる男に、病人の影など微塵もなかった。


「先生、資料って言いますけどね……この腐った饅頭も資料なんですか?」

「おう。カビの色がいい具合だ。その緑青(ろくしょう)みてぇな色は、絵の具じゃ出せねぇ」

「……へいへい」


吉治はため息をつきながら、饅頭以外の明らかなゴミ——空になった酒瓶や、何かの骨——を岡持(おかもち)の脇にまとめた。

吉治も二十代半ばになり、すっかり一人前の店員になっていた。

体つきも逞しくなり、店の主からは暖簾(のれん)分けの話もちらほら出ている。

だが、どんなに忙しくても、この魔窟への「出前兼掃除係」だけは、誰にも譲らず続けていた。


北斎は、今年で七十二歳になる。

世間一般で言えば、還暦を二回りも過ぎた完全なる老人だ。隠居して、縁側で茶でも啜(すす)りながら、孫の相手をするのが普通の人生だろう。

だが、この男の辞書に「隠居」という文字はないらしい。

それどころか、病を経てからの北斎は、以前にも増して精力的——というより、狂暴なまでに活動的になっていた。


「おい吉治、墨を磨(す)れ」

「へい。……で、今日は何を描いてるんです?」


吉治が硯(すずり)に向かうと、北斎はニヤリと笑った。

その顔は皺だらけで、白髪はボサボサだが、眼光だけは少年のようにキラキラと輝いている。

いや、少年というよりは、新しいおもちゃを見つけた悪ガキの目だ。


「富士だ」

「富士山、ですか」

「そうだ。ただの富士じゃねぇぞ。……三十六通りの富士を描く」


北斎は、描きかけの版下絵を吉治に見せつけた。

そこには、桶屋(おけや)が作る巨大な桶の輪の中から、遠くの富士を覗き見るという、奇抜な構図が描かれていた。


「へえ! こりゃあ面白い! 桶の中から富士山を見るなんて、粋ですねぇ」

「だろう? こっちはどうだ」


次に見せたのは、巨大な松の木の間から見える富士。

その次は、波の間から見える富士。

北斎は次々と下絵を広げていく。どれもこれも、吉治が見たこともないような斬新な視点で切り取られた風景だった。


「版元の西村屋から話があってな。『富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)』と題して、揃(そろ)い物として売り出すことになった」

「三十六枚も!? そんなに描けるんですか?」

「足りねぇくらいだ。……いいか吉治、富士ってのはな、ただの山じゃねぇ。日本のへそだ。江戸のどこからでも見える。朝と夕方じゃ色が違う。晴れと雨じゃ形が違う。春と冬じゃ着物が違う。……三十六枚じゃ描き足りねぇよ」


北斎は熱っぽく語った。

その口調は速く、身振り手振りも大きい。

七十二歳。


古希(こき)を過ぎた老人が、まるで初恋の話をする若者のように、頬を紅潮させて「山」について語っている。

その気迫の奔流に当てられて、吉治は眩しさを感じた。


「先生は、本当に年を取らないですねぇ」

「あ? 何言ってやがる。腰は痛ぇし、目は霞むし、歯も抜けちまった。ガタガタのポンコツだ」

「でも、心は二十歳(はたち)の頃より若いんじゃありませんか?」

「馬鹿言え。二十歳の頃なんて、何も見えちゃいなかった。……今の方が、よっぽど世界が新しく見える」


北斎は筆を執り、さらさらと桶の輪郭を修正した。

その手つきには、あの中風の時の震えはもうない。

だが、よく見れば、筆を握る指先は僅かに変形し、不自然に節くれ立っている。あの壮絶な養生の痕跡だ。

不自由さを乗り越え、自分の肉体すらも改造して手に入れた、新しい「手」。


「それにな、今度は新しい武器がある」

「武器?」

「これだ」


北斎は、懐から小さな包みを取り出した。

解くと、中には鮮やかな青色の粉が入っていた。

見たこともない、深く、そして吸い込まれるような青。


「こいつは『ベロ藍(あい)』っていうんだ。異国から来た新しい絵の具だ」

「ベロ藍……」

「今までの藍とは違う。色が褪(あ)せねぇ。空の高さも、水の深さも、こいつなら全部表現できる」


北斎は粉を指先につけ、光にかざした。

その瞳に、青い色が映り込んでいる。

未知の画材を手に入れた喜び。七十二歳にして、まだ新しい技術、新しい道具に飛びつく柔軟さ。

普通の職人なら、使い慣れた道具や手法に固執するものだ。

だが、この男は違う。

良いと思えば、異国のものだろうが何だろうが、貪欲に取り入れ、自分の血肉にしてしまう。


「こいつを使って、誰も見たことのない『青い世界』を描いてやる。……江戸中の度肝を抜いてやるんだ」


クックッ、と喉を鳴らして笑う北斎。

その姿は、まさに「青春」そのものだった。

肉体は老いている。死は確実に近づいている。

だが、魂だけは時間を逆行するように若返り、燃え盛っている。

これが、天才という生き物の正体なのか。


「まったく、このクソ親父は。……死ぬ間際まで色気付いてやがる」


不意に、背後から呆れた声がした。

吉治が振り返ると、長屋の入り口に、お栄(えい)が立っていた。

こちらも相変わらずだ。男勝りの着流しに、ボサボサの髪。手には酒瓶を提げている。

歳は四十に近いはずだが、その鉄火肌な雰囲気は変わらない。むしろ、凄みが増している。


「おう、お栄か。……酒か?」

「ああ。あと、ベロ藍の追加分だよ。版元からふんだくってきた」

「でかした! さすが俺の娘だ」


北斎は子供のように喜んだ。

お栄はドカドカと上がり込むと、吉治の横に座り込んだ。

酒臭い。昼間から飲んでいるらしい。


「よお、吉治。まだこんなジジイの世話をしてんのかい。物好きだねぇ」

「お栄さんこそ。……まだ嫁にも行かず、こんなゴミ溜めで絵筆を握ってるんですか」

「ふん。アタシを貰うような物好きは、この世にいやしないよ。……それに、こいつの介護ができるのはアタシくらいさ」


お栄は顎で北斎をしゃくった。

口では悪態をついているが、その目線は北斎の手元——ベロ藍を溶く手つき——を鋭く観察している。

介護、というのは半分嘘だ。

彼女は盗んでいるのだ。

父親であり、師匠であり、最大の好敵手(こうてきしゅ)である北斎の技を。七十二歳にして進化を続ける怪物の背中を、誰よりも近くで見つめ、吸収しようとしている。


「おい、お栄。そこにある定規とぶん回し(コンパス)を取れ」

「へいへい。……ほらよ」

「吉治、お前は蕎麦だ。腹が減った」

「へい。……いつもの『味はどうでもいいやつ』ですね」


北斎の仕事場が、動き出した。

定規とぶん回しを使って、理詰めで富士の構図を決めていく北斎。

横で煙管(キセル)を吹かしながら、時には「そこの線、歪んでるよ」と容赦なくダメ出しをするお栄。

そして、そんな二人を見守りながら、部屋の片隅で蕎麦の用意をする吉治。


奇妙な空間だった。

ゴミと埃と異臭に満ちた、薄暗い長屋。

だが、そこには確かな熱があった。

何かが生まれようとしている胎動。

世界を変えるような傑作が、この混沌とした泥の中から、蓮の花のように咲こうとしている予感。


吉治は、ふと思った。

自分は今、歴史の真ん中にいるのかもしれない。

後世の人々が「天才・葛飾北斎」と崇めることになる男の、最も脂の乗った瞬間を、特等席で見ているのかもしれない。


「……先生」

「あ?」

「長生きしてくださいよ。……三十六枚、全部見届けるまでは死なせませんからね」


吉治が言うと、北斎は筆を止めた。

そして、ニヤリと笑った。

その笑顔は、百歳まで生きても描き足りないと言わんばかりの、強欲で、傲慢で、そして最高に魅力的な笑顔だった。


「当たり前だ。……三十六枚どころか、百枚だって描いてやる。俺の青春は、これからなんだよ」


北斎は再び筆を走らせた。

ベロ藍の青が、紙の上に広がる。

それは、夜明けの空の色だった。

七十二歳の老人が見ている、新しい一日の始まりの色。

吉治は、その青さに吸い込まれそうになりながら、静かに蕎麦を置いた。

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