雀の舞
秋が深まり、南割下水(みなみわりげすい)のドブ川に色づいた落ち葉が浮かぶ季節になった。
江戸の空は高く、澄み渡り、吹き抜ける風には冬の匂いが微かに混じり始めていた。
吉治の「魔窟」通いは、もはや日課を通り越して、生活の一部、いや、呼吸と同じくらい自然な行為となっていた。
出前がない日でも、何かと理由をつけては顔を出す。柚子を持っていったり、溜まった反故紙を処分したり、あるいはただ、あの偏屈な老人がまだ息をして、筆を握っているかを確認するためだけに。
吉治の中で、北斎という存在は、単なる客ではなく、得体の知れない磁場を持つ「中心」となっていたのだ。
その日、吉治が長屋の戸を開けると、部屋の空気がいつもと違っていた。
あの、張り詰めた殺気がない。
かといって、弛緩しているわけでもない。
例えるなら、祭りの前の静けさのような、あるいは嵐が去った後の海のような、微かな高揚感を含んだ透明な静寂が漂っていた。
部屋の真ん中に、北斎がいた。
いつものように、文机(ふづくえ)に向かっている。
だが、その背中は以前より一回り小さく、しかし鋼のように引き締まって見えた。
右手には、もうあの痛々しい血の滲んだ布切れは巻かれていない。
赤く腫れ上がっていた手首も、今ではすっかり枯れ木のように乾き、筋張ってはいるものの、確かな芯の強さを感じさせるものに戻っていた。
「……先生?」
吉治が声をかけると、北斎は振り返りもせずに、左手の人差し指を唇に当てた。
「シッ。……静かにしろ」
低い、囁くような声。
だが、その声色には、珍しく温かみがあった。
「逃げちまう」
「何がです?」
「……あそこだ」
北斎が顎でしゃくった先を見る。
破れた障子の隙間から、庭先が見えた。手入れもされず、雑草が伸び放題の荒れた庭だ。
そこに、古びた垣根の残骸があり、その上に数羽の雀が降り立っていた。
丸々と太った冬雀だ。
地面をついばみ、ピョンピョンと跳ね回り、時折「チチッ、チチチ」と愛らしい声で鳴き交わしている。
「……雀、ですか」
「そうだ。……よく見ろ」
吉治は忍び足で近づき、北斎の横顔を盗み見た。
息を呑んだ。
北斎の目は、あの雷鳴の夜のような、食い殺さんばかりの狂気を孕んでいなかった。
穏やかで、しかし驚くほど澄んでいた。
まるで、世界の理(ことわり)そのものを映し出す鏡のような瞳。
それは獲物を狙う狩人の目ではなく、愛おしい孫を見るような慈愛と、その動きの全て、生命の脈動の一瞬一瞬を網膜に焼き付けようとする、貪欲で純粋な観察者の目だった。
「跳ねる時、翼はどうなる。……足の筋肉はどう縮む」
北斎はうわ言のように呟いていた。
その視線は、雀の表面の羽毛だけでなく、その下にある骨格、筋肉の収縮、重心の移動までをも透視しているようだった。
「首を捻る時、背中の羽毛がどう逆立つか。……風を孕んだ時、尾羽がどう開くか。……見えるか、吉治」
「え、ええ。……見えやすけど、ただの雀ですぜ?」
「ただの雀じゃねえ。……命の塊だ」
北斎は、ゆっくりと筆を墨壺に浸した。
たっぷりと墨を吸わせる。
そして、手元の紙に目を落とした。
「あの軽さを……、この不自由な手で、どう捕まえる」
問いかけであり、挑戦だった。
筆が動く。
夏にはあれほど震え、暴れ、北斎を絶望の淵に叩き込んだ右手が、今は静かに、そして滑らかに紙の上へと降り立つ。
もちろん、以前のような神速ではない。
筆の動きは遅く、慎重だ。
時折、ピクリと筋肉が痙攣し、線が予期せぬ方向へ歪みそうになる。
あっ、と吉治が声を上げそうになった。
線がブレた。失敗だ、と思った。
だが、北斎は止めなかった。
その「ブレ」を、そのまま筆の勢いに変え、グイッと線を曲げたのだ。
トン、と筆を置く。
墨が滲む。それが雀の頭になる。
スッ、と線を引く。
震える線が、かえって羽毛の柔らかさと、冬の寒さに膨らんだ雀の温かみを、驚くほど生々しく表現していく。
吉治は鳥肌が立った。
魔法だ。
まっすぐに引けないという「不自由」が、計算では出せない「ゆらぎ」となり、それが生命の柔らかさに変換されている。
不自由なはずの手が、自由な翼を生み出しているのだ。
「……すごい」
「生き物はな、止まってねえんだ」
北斎は筆を走らせながら、独り言のように言った。
「常に動いてる。止まっているように見えても、心臓は動き、血は巡り、呼吸してる。……風に揺れ、重力に逆らい、命を燃やして動いてる」
北斎の筆が加速する。
一羽、また一羽。
白い紙の上に、黒い墨の雀たちが生まれ落ちる。
地面をついばむ者。空を見上げる者。仲間と喧嘩をして羽を広げる者。
それらは、ただの写生ではなかった。
踊っていた。
雀たちが、紙の上で楽しげに舞い踊っている。
音まで聞こえてきそうだった。チチチという鳴き声、羽ばたきの音、そして地面を蹴る小さな足音。
それは後に『略画早指南(りゃくがはやおしえ)』などで世間を驚かせることになる、北斎の真骨頂とも言える「略画」の世界の萌芽だった。最小限の線で、最大限の命を描き出す魔術。
「先生、……楽しそうですね」
吉治が思わず漏らすと、北斎は筆を止めた。
そして、ゆっくりとこちらを向いた。
その顔を見て、吉治は胸を突かれた。
笑っていた。
いつも浮かべていた、世の中を斜に構えた皮肉なニヤリ笑いではない。
泥遊びに夢中になった子供のような、無邪気で、そしてどこか誇らしげな笑顔。
顔の右半分の麻痺はまだ残っている。笑顔は歪んでいた。引きつっていた。
だが、その歪みさえもが、数多の苦難を乗り越えてきた年輪のように、今の北斎の魅力的な「味」になっているように見えた。
「ああ、楽しいな。……思い通りに描けねえから、楽しいんだ」
北斎は筆を置き、墨で汚れた自分の右手を見つめた。
愛おしそうに、左手でその甲を撫でる。
「昔はな、思った通りに線が引けた。手が勝手に動いて、頭の中にあるものをそのまま映し出せた。……俺の手は、俺の道具だった」
「はい……神様みたいな腕でした」
「だが今は違う。この手は俺の言うことを聞かねえ。暴れるし、止まるし、勝手に震える。……まるで、別の生き物が俺の腕にくっついてるみてぇだ」
北斎はクックッと喉を鳴らして笑った。
「だからこそ、面白い。俺と、この役立たずの右手が、喧嘩しながら、宥(なだ)めすかしながら、二人三脚で描くんだ。……そうするとよ、たまに俺の想像もつかねぇような『好(い)い線』が出やがる」
北斎は紙の上の雀の一羽を指差した。
その雀の翼の線は、確かに不自然に曲がっていた。普通なら描き損じとして捨てられる線だ。
だが、その予期せぬ曲がりが、雀が急に方向転換した時の躍動感と、風を切る一瞬のきらめきを、奇跡的に表現していた。
計算された完璧な線では決して出せない、偶然と必然が交錯した「神の一筆」。
「怪我の功名、ってやつですか」
「そんな上品なもんじゃねえよ。……転んでもただじゃ起きねえ、貧乏根性だ」
カッカッカ、と北斎は大声で笑った。
その笑い声は、以前よりも腹の底から響いている気がした。
一度死んで、地獄を見て、そこから這い上がってきた男だけが持つ強さ。
失ったものを嘆くのではなく、残された不完全さを武器に変え、新しい世界を切り拓こうとする逞しさ。
吉治は、この老人が以前よりも巨大に、そして眩しく見えた。
雷神は死んでいなかった。
いや、雷神は一度死んで、雷の激しさだけでなく、風のような軽やかさと自由さを手に入れて、より強力な「風神」として蘇ったのだ。
この人は、最強だ。
吉治は確信した。
老いも、病も、不自由さえも、この男にとっては画材の一つに過ぎないのだ。
「さて、吉治」
「へい」
「腹が減ったな」
北斎はまたニヤリと笑った。
その笑顔を見ると、吉治も自然と笑みがこぼれた。
あの壮絶なリハビリの日々。怒号と悲鳴と涙の混じり合った地獄のような時間が、今は遠い昔のように思える。
ここには、穏やかな秋の陽射しと、墨の香りと、そして確かな「再生」の喜びがあった。
「へい! 今日は何にしやしょうか。……先生のことだから、また『味なんてどうでもいい、腹が膨れりゃ何でもいい』なんて言うんでしょうけど」
「馬鹿野郎。今日は祝いだ」
「祝い?」
「ああ。俺の新しい右手の、門出の祝いだ。……天ぷら蕎麦だ。海老を二本乗せろ」
「へえ! 豪勢ですねぇ!」
吉治は嬉しくなって声を弾ませた。
あの食に無頓着で、味など二の次だった北斎が、自分から美味いものを食いたいと言ったのだ。
それは、北斎の中で「生きる」ということが、単なる制作のための燃料補給ではなく、楽しみを含んだ彩りあるものに変わった証のように思えた。
一度失いかけた命だからこそ、その味わいを知ったのかもしれない。
「へい! 特大の海老天、揚げたてを持ってきやす! ……待っててくださいよ、絶対に伸びないうちに持ってきますから!」
吉治は岡持を提げ、弾むような足取りで長屋を飛び出した。
外は快晴だった。
高く澄み渡る秋空が、どこまでも広がっている。
吉治はふと足を止め、空を見上げた。
鰯雲が流れている。
以前、北斎はあれを「龍の骨」だと言った。
今の吉治には、それは恐ろしい龍には見えなかった。
無数の雀たちが、楽しげに空を舞い、歌っているように見えた。
世界は、見る人の心持ち一つで、地獄にも極楽にもなるのだ。
「……すごい人だ」
吉治はしみじみと呟いた。
自分は絵描きにはなれない。あんなふうに、人生のすべてを懸けて何かに打ち込み、狂気と隣り合わせで生きることもできないかもしれない。自分はあくまで、蕎麦を運び、平凡に暮らす市井の人間だ。
だが、あの人の背中を追いかけ、その筆先から生まれる奇跡を一番近くで見届けることはできる。
その生き様に触れ、その熱に焼かれることはできる。
それは、どんな特等席よりも価値のあることなんじゃないか。
そんな予感が、吉治の胸を熱くさせていた。
「この人は、死ぬまで止まらない。……いや、死んでも止まらないかもしれないな」
吉治は苦笑し、走り出した。
早く熱い蕎麦を届けなければ。
あの画狂老人は、待つのが大嫌いなのだから。
きっと今頃、もう次の紙を広げ、新しい世界を描こうと待ち構えているに違いない。
路地の向こうから、一陣の風が吹き抜けた。
その風は、古い季節を運び去り、新しい時代の訪れを告げるように、吉治の頬を優しく、力強く撫でていった。
脳卒中からの復活。
それは単なる回復ではなく、葛飾北斎という画家の「脱皮」であった。
この後、北斎は新たな画号「卍(まんじ)」を名乗り、七十歳を超えてなお進化を続け、やがて世間を、いや世界をあっと言わせる『富嶽三十六景』を描き始めることになる。
その伝説の幕開けまで、あとわずか数年のことである。
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