旅路の果てに
「……はぁ、はぁ、……先生、ちょっと、待ち、ましょうよ……!」
吉治の悲鳴のような声が、荒々しい潮風に吹き消される。
目の前には、見渡す限りの砂浜と、ねじ曲がった黒松の林が延々と広がっていた。
上総(かずさ)の海である。
江戸から遥々、二十里以上。房総半島への取材旅行である。吉治は「荷物持ち兼財布係」として、半ば無理やり連れ出されていた。
二十代半ば、油の乗り切った年頃のはずの吉治が、今は息を切らして膝に手をつき、情けない姿を晒している。
だというのに、五十も年上の北斎は、遥か先をスタスタと歩いているのだ。
「おい、遅いぞ! 日が暮れちまう!」
北斎が振り返って怒鳴る。声に疲れの色は微塵もない。
その背中には、画材道具一式が入った重たい葛籠(つづら)が背負われている。吉治が持つと申し出ても、「大事な商売道具だ、人に預けられるか」と頑として譲らなかったのだ。
杖をついているが、それは体を支えるためではない。
邪魔な草をなぎ払ったり、砂浜に思いついた図形を描いたりするための、いわば指し棒のようなものだ。
その足取りは、まるで重力を忘れたかのように軽く、そして速い。
「……化け物だ、本当に」
吉治は流れる汗を拭いながら、恨めしげに呟いた。
道中、駕籠(かご)に乗ろうと提案しても、「足腰が弱る」と一蹴された。馬に乗ろうと言っても、「視点が高すぎて地面の凸凹が見えん」と拒否された。
結局、江戸からここまで、ほとんど歩き通しだ。
七十二歳の老人とは到底思えない。
見るもの全てを描き尽くしたいという欲望が、肉体を突き動かす燃料になっているのだろうか。この人の血管には、血の代わりに油が流れていて、常に心臓という鞴(ふいご)で炎を燃え上がらせているのではないか。そんな空想さえ浮かんでくる。
「おい吉治! ここだ! ここから見る富士がいい!」
北斎が小高い砂丘の上で手を振っている。
吉治は最後の力を振り絞って、ズブズブと沈む砂に足を取られながら登った。
頂上に立つと、視界が一気に開けた。
絶景だった。
眼下には、見渡す限りの紺碧の海が広がり、白い波頭が幾重にも重なって岸に押し寄せている。
夕日が水面を黄金色に染め上げ、空と海が溶け合う彼方に、小さな、しかし圧倒的な存在感を放つ白い三角形が浮かんでいた。
富士山だ。
江戸の街中から見る姿とは違い、海を越えて見る富士は、どこか神々しく、そして孤高に見えた。
「……うわあ。綺麗ですねぇ」
吉治は思わず声を漏らした。
疲れが一瞬で吹き飛ぶような美しさだった。
腹に響く波の音。鼻孔をくすぐる潮の香り。そして、茜色から藍色へと移ろう空の色の深さ。
これを見るために泥にまみれて歩いてきたのだと思えば、悪くない。
吉治は素直に感動し、その情緒に浸ろうとした。
「……三角形だ」
隣で、低い声がした。
北斎だった。
彼は、感動していなかった。
いや、吉治のような「綺麗だ」「すごい」という感情とは、全く質の違う反応を示していた。
その目は、風景を楽しんでいるのではない。解体していた。
獲物の急所を探る鷹のような、冷徹で鋭い眼差し。
「は? 三角形って……富士山のことですか?」
「違う。……波だ」
北斎は懐から矢立(やたて)と帳面を取り出し、さらさらと何かを描き始めた。
吉治が覗き込むと、そこに描かれていたのは、目の前の美しい風景画ではなかった。
図形だ。
大小様々な三角形と、コンパスで引いたような円の組み合わせ。
「いいか吉治。波ってのはな、水の塊じゃねえ。力の塊だ」
「力……ですか」
「おう。風が水を押す。水が盛り上がる。重力で崩れる。……その瞬間の形は、すべて円と三角形で説明がつく」
北斎は筆先で、眼下の荒波を指した。
「あのでかい波を見ろ。盛り上がる背中は円の一部だ。崩れる瞬間の飛沫(しぶき)は、小さな球の集まりだ。そして、波と波の間の谷間……あそこは逆三角形になってる」
吉治は海を見た。
ただの荒れた海にしか見えない。
ザブーン、と音を立てて崩れる波。キラキラ光る飛沫。
それらは美しく、混沌としていて、捉えどころのない自然の姿だ。
だが、北斎の言葉を聞いてからもう一度見ると、不思議な感覚に襲われた。
波の曲線が、定規で引いた円弧に見えてくる。
波頭のギザギザが、鋭角な三角形の集まりに見えてくる。
「世の中の万物はな、すべて『丸』と『角(かく)』で出来てるんだ」
北斎は持論を展開し始めた。
これは、彼が最近熱中している『略画早指南(りゃくがはやおしえ)』の理論だ。
定規とぶん回し(コンパス)があれば、世界中のあらゆるものを描けるという、極端にして明快な思想。
「富士山も三角形。波も三角形。……この二つは、似てるんだよ」
「山と波がですか? 全然違うでしょう。山は動かないし、波は動くし」
「形の話だ。……相似形(そうじけい)ってやつだ。動かない巨大な三角形(富士)の手前に、動き続ける無数の三角形(波)を配置する。……そうすると、画面に調子(リズム)が生まれる。止まっているはずの絵が、動き出すんだ」
北斎はブツブツと呟きながら、帳面に幾何学模様を書き殴っていく。
その横顔を見て、吉治は背筋が寒くなった。
この人は、景色を見ていない。
景色の裏側にある「骨組み」を見ているのだ。
美しい夕焼けも、彼にとっては色の配置の手本に過ぎない。荒れ狂う波も、物理法則の雛形に過ぎない。
世界を、一度バラバラに分解し、自分の脳内で再構築している。
それは、神の御業(みわざ)に近い傲慢さであり、同時に、人間味のない冷徹さでもあった。
「……先生には、情緒ってものがないんですか?」
吉治はつい、そんなことを口走った。
「せっかくこんなにいい景色なのに、定規だのぶん回しだの……。もっとこう、心で感じないんですか。『ああ、いい波だなぁ』とか、『寂しいなぁ』とか」
北斎は手を止め、ゆっくりと吉治を見た。
その目は、氷のように怜悧(れいり)な光を放っていた。
「心で感じる?」
北斎は鼻で笑った。
「そんなあやふやなもんで描けるか。……いいか、吉治。絵描きってのはな、世界を翻訳する仕事だ」
「翻訳……?」
「目の前にある奥行きのある景色を、紙という平らな世界に落とし込む。そのためには、感情なんざ邪魔だ。必要なのは理屈だ。なぜ美しく見えるのか、なぜ迫力があるのか。その『なぜ』を解き明かして、線と色に置き換える。……それが出来て初めて、見るやつの心を動かせるんだ」
北斎は再び海に向き直った。
夕日が沈みかけ、海面が鈍色(にびいろ)から深い藍色へと変わっていく。
その美しい光景を前にして、北斎は筆を握りしめ、まるで戦場に立つ武人のように身構えていた。
「俺はな、ただの『上手い絵』を描きたいんじゃねぇ。……『真実』を描きたいんだ」
「真実……」
「波が崩れる一瞬。その刹那(せつな)に宿る、自然の恐ろしさと美しさ。それを定着させるには、俺自身の目と手が、自然の理(ことわり)と同化しなきゃならねぇ」
北斎の言葉に、吉治は圧倒された。
この人は、ただ絵を描いているのではない。
世界と格闘しているのだ。
つかみ所のない巨大な自然を、人間の知恵と技術でねじ伏せ、紙の上に封じ込めようとしている。
その戦いは、果てしなく孤独で、そして狂気じみていた。
吉治は、自分の凡庸さを痛感した。
自分は「綺麗だ」と感じて終わりだ。それを誰かに伝えようとしても、「すごかった」としか言えない。
だが、北斎は違う。
その美しさの正体を暴き、構造を理解し、万人が追体験できる形にして提示する。
それが「天才」と呼ばれる人種なのだ。
「……かなわねぇなぁ」
吉治は砂浜に座り込んだ。
足の疲れよりも、心の疲労の方が大きかった。
この人と一緒にいると、自分の見ている世界がいかに浅く、表面的なものであるかを思い知らされる。
だが、不思議と嫌な気分ではなかった。
隣にいる小さな老人の背中が、海の向こうの富士山よりも大きく、頼もしく見えたからだ。
「おい吉治、何休んでやがる」
「へいへい。……見惚れてたんですよ、先生に」
「気色の悪いこと言うな。……それより、あそこの波を見ろ」
北斎が筆先で指差した先。
沖合から、ひときわ巨大なうねりが近づいてきていた。
風を孕み、盛り上がり、今にも崩れ落ちようとする瞬間の、圧倒的な水の壁。
その波頭が、まるで獲物に襲いかかる獣の爪のように鋭く尖っている。
「あれだ。……あれを止めるぞ」
北斎が呟いた。
その目には、もはや吉治など映っていない。
ただ、迫り来る「波」という怪物と対峙し、その急所を見極め、一太刀で仕留めようとする、狩人の目だけがあった。
この旅の果てに、あの一枚が生まれることになる。
世界中の人々が知ることになる、『神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』。
その萌芽が、今まさに、この名もなき房総の浜辺で生まれようとしていた。
吉治は、吹き付ける潮風の中で、歴史が動く重い音を聞いた気がした。
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月を見る虎 深山朝露 @miyama-choro
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