線が繋がる時
指が動いた。
それは確かに奇跡だった。医者も「あり得ない」と首を捻り、狐につままれたような顔をしていた。
だが、そこからが本当の地獄の始まりだった。
指がピクリと痙攣することと、筆を持って自在に線を引くこととの間には、天と地ほどの、いや、現世と黄泉の国ほどの隔たりがあったのだ。
春が過ぎ、梅雨が長屋の壁に黒いカビを咲かせ、じめじめとした湿気が北斎の関節を痛めつける季節が来た。それでも、老人は止まらなかった。
来る日も来る日も、朝から晩まで、動かない右手と格闘し続けた。
描いては破り、描いては破り。
部屋の中は、失敗した反故紙(ほごがみ)で埋め尽くされ、その数は千枚、いや万枚を超えていただろう。
やがて、あの忌まわしい雷鳴の日と同じ、茹だるような夏が巡ってきても、北斎の戦いは終わるどころか、より凄惨さを増していた。
その日、吉治はいつものように南割下水を訪れていた。
頭がくらくらするような暑い日だった。蝉の声が、煮えたぎった油を空から流したように、頭上から降り注いでいる。
吉治は手ぬぐいで首筋の汗を拭いながら、戸に手を掛けた。
中から、いつもの柚子を煮る酸っぱい匂いと、獣のような、あるいは地獄の底から響く亡者のような唸り声が聞こえてくる。
「……ぐっ、ガアァァッ……!」
吉治は重いため息をつき、覚悟を決めて、音を立てないように中へ入った。
北斎は、机に向かっていた。
いや、机にしがみついていた。
汗で濡れた着物が背中にべっとりと張り付き、あばら骨の浮き出た背中が、まるで瘧(おこり)にかかったように小刻みに震えている。
右手には筆が握られていた。
だが、それはただ持っているだけではない。
筆の軸と、手の甲、そして手首までもが、汚れた布切れでぐるぐると何重にも巻き付けられ、無理やり固定されているのだ。
握力が足りず、すぐに筆を落としてしまうからだ。
自分の手を縛り付けてまで、北斎は紙に向かっていた。まるで、言うことを聞かない暴れ馬を鎖で繋ぐように。
「先生、……お茶、淹れましょうか。少し休んだほうが……」
吉治が恐る恐る声をかけると、北斎は振り返りもせずに怒鳴った。
「黙ってろ! ……気が散る! 殺すぞッ!」
凄まじい剣幕だった。殺気、と言ってもいい。
吉治は言葉を飲み込み、部屋の隅に正座した。
邪魔をしてはいけない。今の北斎は、見えない糸の上を歩いているような、あるいは刃の上を裸足で渡っているような、極限の集中状態にある。
北斎の左手が、右腕を支えている。
右の手首を掴み、硯(すずり)の上へと運ぶ。
墨をつける。
たっぷりと黒い汁を吸った穂先が、重たげに垂れる。
そこまではいい。左手の補助があれば、そこまではできる。
問題は、そこからだ。
紙の上へ運ぶ。
描くためには、支えている左手を離さなければならない。
北斎は息を止め、左手の指を、一本ずつゆっくりと離していく。
その瞬間、右腕の支えがなくなる。
プルプルプル……ガタガタガタ……。
右手が、激しく痙攣を始めた。
自分の意思とは関係なく、腕が意思を持った別の生き物のように跳ね回る。
筆先が空中で乱舞し、墨の飛沫(しぶき)が紙に、畳に、北斎の顔に飛び散った。
「止まれ……止まれッ!! 動くなッ!!」
北斎が叫ぶ。
全身の筋肉を硬直させ、歯を食いしばり、暴れる右腕をねじ伏せようとする。
額から汗が滝のように流れ落ち、目には血走った血管が切れそうに浮かび上がる。
ギリギリと、奥歯がきしむ音が吉治の耳まで届いた。
——見ちゃいられない。
吉治は膝の上で拳を握りしめ、爪が食い込む痛みで涙をこらえた。
これは拷問だ。自分で自分に課した、終わりのない責め苦だ。
ただ一本の線を引く。
子供でもできる、いや、猿でもできることが、今の北斎には、針の穴に糸を通すよりも、あるいは巨岩を持ち上げるよりも難しい難行となっていた。
ボトッ。
制御を失った筆先が、紙に落ちた。
意図した場所ではない。
ただの醜い黒いシミが、じわりと繊維に吸われて広がる。
「あああぁぁぁぁッ!!」
北斎は絶叫し、机を蹴り上げた。
机がひっくり返り、硯が飛び、墨汁が床にぶちまけられる。
北斎は縛り付けられた筆ごと、右手を床に叩きつけた。
バンッ! バンッ! バンッ!
自分の肉体を破壊しようとするかのように、何度も、何度も。
布が食い込み、擦れた手首から血が滲み、畳を汚していく。
「なぜだ! なぜ言うことを聞かん! 俺の腕だろ! 俺の一部だろうが! なんで俺を裏切るんだッ!」
北斎は畳に頭を擦り付け、獣のように慟哭(どうこく)した。
その姿は、あまりにも小さく、そして哀れだった。
かつて世界中の色を支配し、波を止め、富士を従えた男が、今はたった一滴の墨すら御せない。
己の肉体という牢獄に閉じ込められ、出口を求めてのたうち回っている。
「先生! もうやめてください!」
吉治はたまらず駆け寄り、北斎の体を抱き止めた。
老人の体は火のように熱く、汗と墨と泥にまみれていた。
「離せッ! 俺は描くんだ! 描かなきゃならねぇんだ!」
「無理ですよ! こんな体じゃ、もう……!」
「うるせぇ! 描けねぇまま生きるくらいなら、いっそ腕ごと切り落としてくれ!」
北斎が暴れる。その力は、病み上がりとは思えないほど凄まじかった。
吉治は必死で抑え込みながら、かける言葉が見つからなかった。
「頑張ってください」なんて軽々しい言葉は、この絶望の前では灰のように吹き飛んでしまう。かといって「諦めてください」とも言えない。それはこの男の魂を殺すことだからだ。
長い、長い沈黙が流れた。
部屋には、北斎の荒い息遣いと、外の蝉の声だけが響いていた。
不意に、北斎の力が抜けた。
吉治の腕の中で、老人がぐったりと脱力する。
死んだのか、と一瞬思った。
だが、北斎は顔を上げた。
その顔は涙と鼻水と汗と墨でぐしゃぐしゃだったが、目は死んでいなかった。
激情の嵐が過ぎ去り、深淵を覗き込んだ後のような、底知れない静けさを湛えた「凪」の状態にあった。
「……吉治」
「へ、へい」
「新しい紙だ。……出せ」
声は低く、かすれていたが、絶対的な命令の響きがあった。
吉治は弾かれたように動いた。
反故紙ではない。とっておきの、真っ白な越前奉書紙だ。一枚しかない。
それを北斎の前に広げる。
北斎は、血の滲む手首の布を、歯で噛みちぎった。
ブチリ、と音がして、布が解ける。
自由になった右手は、赤く腫れ上がり、痛々しく震えている。筆を握る力さえ残っていないように見えた。
「縛るのはやめだ。……甘えになる」
北斎は呟いた。
道具に頼り、力尽くでねじ伏せようとした己の傲慢さを恥じるように。
そして、再び筆を握った。
今度は布を使わない。己の指の力だけで、筆の軸を保持する。
小指が震える。薬指が逃げる。親指が滑る。
筆が生き物のように手から逃げようとするのを、左手を使わず、精神力だけで押さえ込んでいく。
スゥーッ……。
北斎が、長く、深く息を吸い込んだ。
部屋の空気が変わった。
蝉の声が遠のき、じっとりと湿っていた夏の熱気が、急速に冷えていくような錯覚。
吉治は肌が粟立つのを感じた。
殺気だ。
あの、雷鳴の夜以前に感じていた、北斎特有の、獲物を狙う鋭利な殺気が戻ってきている。
いや、以前よりも研ぎ澄まされている。
肉体という枷(かせ)を負ったことで、魂だけが純化され、鋭利な刃物となって空間を切り裂いているようだ。
北斎の視線が、紙の一点に吸い込まれていく。
右手の震えが、徐々に、徐々に収まっていく。
完全に止まったわけではない。微かに揺れている。
だが、その揺れのリズムが、北斎の呼吸と同期し始めていた。
暴れる肉体をねじ伏せるのではなく、その震えすらも取り込み、同調していく。
来る。
吉治は直感した。
今、何かが起きる。
唾を飲み込む音さえ憚(はば)かられる静寂。
埃(ほこり)が光の中で舞うのが見えるほど、時間が引き伸ばされていく。
北斎の右腕が、ゆっくりと持ち上がった。
左手の支えはない。
重力と、麻痺という二重の鎖を引きずりながら、意思の力だけで浮上する。
その動きは遅く、重々しい。見えない泥沼をかき分けているようだ。
だが、迷いはなかった。
「……!」
北斎が目を見開いた。
右肩が動き、肘が動き、その力が壊れた神経回路を駆け巡り、指先へと伝播する。
筆が振り下ろされた。
トン。
筆先が紙に触れる音。
柔らかく、しかし確かな着地。
そこから、筆が走る。
スーッ……ザッ……。
紙と筆が擦れ合う、微かな衣擦れのような音。
吉治は、その音を鼓膜ではなく、魂で聞いた気がした。
震える手で引かれたその線は、決して真っ直ぐではなかった。
途中で歪み、墨が滲み、太さが変わり、掠(かす)れている。
だが、途切れなかった。
始点から終点まで。
北斎の脳髄から発せられた「描きたい」という純粋な渇望が、壊れた肉体を凌駕し、紙の上に痕跡を残したのだ。
筆が、紙から離れた。
北斎の体から、フッと力が抜けた。
カラン、と乾いた音を立てて筆が床に転がる。
紙の上には、一本の線が残されていた。
ただの横棒だ。
ミミズが這ったような、不恰好な線。
以前の北斎なら、迷わず破り捨てていたであろう、拙(つた)ない線。
だが、吉治はそこから目を離せなかった。
その線は、生きていた。
真っ直ぐな定規の線ではない。苦しみ、もがき、それでも前へ進もうとする、生命の鼓動のような振動が、墨の濃淡の中に刻まれている。
それは、綺麗な線ではなかったが、泣きたくなるほど「強い」線だった。
血を吐くような思いで引かれた、魂の一筆。
「……繋がった」
北斎が、かすれた声で言った。
その顔には、満面の笑みも、涙もなかった。
ただ、長い旅の果てに、ようやく故郷の入り口を見つけた旅人のような、安堵と、新たな決意が入り混じった表情があった。
「吉治、見たか」
「へ、へい……見ました。凄かった……」
吉治の声は震えていた。知らず知らずのうちに、涙が頬を伝っていた。
「線が、通ったぞ。……脳みそと、指先と、紙が。千切れていた道が、ようやく一本の細い道で繋がった」
北斎は、震える右手を開いたり閉じたりした。
その動きはまだぎこちない。痛みも残っているだろう。
だが、そこには確かに「自分の手」としての意思が戻ってきていた。
「下手くそな線だ」
北斎は自嘲気味に笑った。
「六歳の子供の方がマシかもしれん。……だがな、吉治。これが今の俺の『一(いち)』だ」
「一、ですか」
「ああ。積み上げてきた九十九は、全部燃えちまった。だが、この『一』があれば、ここからまた積み上げられる」
ここから、また。
七十を前にして、また一から。
吉治は、胸の奥が熱くなるのを抑えきれなかった。
この人は、本当に化け物だ。
すべてを失い、肉体さえ壊れても、残ったたった一つの種を握りしめて、また大樹を育てようとしている。
その果てしない徒労と、不屈の魂に、吉治は畏怖を超えた崇高さを感じていた。
凡人の自分には、一生かかっても到達できない境地。
だが、その境地へ向かう背中を見ているだけで、自分の命まで燃え上がっていくような気がした。
「先生……」
「なんだ」
「蕎麦、持ってきましょうか。……特大のやつ」
吉治が涙を拭いながら言うと、北斎はニヤリと笑った。
その笑顔は、病み上がりの老人のものではなく、悪戯を企む少年のようだった。
「おう。一番高いやつを持ってこい。……腹が減って、目が回りそうだ」
北斎の腹が、グゥと雷のように鳴った。
二人は顔を見合わせ、吹き出した。
薄暗いゴミ屋敷の中に、久しぶりに笑い声が響いた。
外の蝉時雨が、まるで復活を祝福するように、一層激しく鳴り響いていた。
線は繋がった。
だが、それはあくまで始まりに過ぎない。
一度死んで蘇った雷神が、その不自由な手で、自由な世界をどう描き出すのか。
吉治はまだ、その本当の凄さを知らなかった。
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