地獄の訓練

 雷鳴の夜から、三月(みつき)が過ぎた。

 江戸の町には春一番が吹き荒れ、梅の香りが漂い始めていたが、南割下水のどん詰まりにあるこの長屋だけは、依然として真冬のような寒々しい空気に閉ざされていた。


 部屋の中は、相変わらずのゴミ屋敷だ。

 だが、その混沌の中に、新たな匂いが混じり始めていた。

 柑橘(かんきつ)の、酸っぱく、そして渋い香りだ。


「おい、小僧。遅いぞ」


 吉治が戸を開けると、いきなり怒声が飛んできた。

 部屋の奥、煎餅布団の上に座っているのは、葛飾北斎だ。

 三月前、死の淵を彷徨っていたのが嘘のように、老人は上半身を起こしていた。

 だが、その姿は凄惨だった。

 右腕は枯れ木のように痩せ細り、胸元にだらりと垂れ下がっている。顔の右半分の麻痺は多少引いたものの、口元は歪んだままで、喋るたびに言葉が空回りする。

 それでも、その左目の眼光だけは、病前よりもさらに凶悪にギラついていた。


「す、すいません! 店が忙しくて……」

「言い訳はいらん。柚子(ゆず)だ。柚子を持ってこい」


 北斎の前には、七輪と土瓶が置かれている。

 土瓶からは白い湯気が上がり、部屋中に充満しているあの酸っぱい匂いの発生源となっていた。

 吉治は急いで懐から手ぬぐいに包んだものを出した。八百屋で頼み込んで手に入れた、旬を過ぎて少し萎びた柚子だ。


「これしかありませんでした。もう時期が終わっちまうんで……」

「チッ、小さいな。まあいい、そこへ放り込め」


 北斎は左手で土瓶の蓋を取るよう顎で指示した。

 中では、ドロドロに煮詰まった液体が、地獄の釜のようにボコボコと泡を立てている。

 柚子を丸ごと煮込み、さらに砂糖や酒を加えて煮詰めた、北斎特製の「柚子薬(ゆずぐすり)」だ。

 医者の薬など信用ならん、と言って、北斎が自分で考案した民間療法だった。


「先生、本当にこんなもんで治るんですか? 医者は安静にしてろって……」

「藪医者の戯言(ざれごと)なんざ聞く耳持たん。俺の体は俺が一番知ってる」


 北斎は土瓶から椀にドロリとした液体を注ぐと、湯気も収まらないうちに一気に煽った。

 熱くないのだろうか。いや、熱さなど感じていないのかもしれない。

 飲み干した後、顔をしかめ、恐ろしい形相で吉治を睨んだ。


「……よし、やるぞ」

「えっ、またですか?」

「当たり前だ。一日たりとも休むわけにはいかん。……来い」


 北斎の「リハビリ」が始まる合図だった。

 吉治は観念してため息をつき、北斎の背後に回った。

 この三ヶ月、出前のついでに——というより、ほぼこのために——通わされている日課だ。


「いいか、今日は肩甲骨の裏だ。そこが錆びついてやがる」

「へいへい。……失礼しやす」


 吉治はあぐらをかいた北斎の背中に手を当てた。

 着物の上からでも分かる、骨と皮ばかりの体。だが、その筋肉は驚くほど硬く強張っている。まるで鋼の針金が埋め込まれているようだ。

 吉治が親指に力を込めて押し込む。


「ぐっ……!!」


 北斎の喉から、押し殺したような呻き声が漏れる。

 痛いはずだ。凝りをほぐすというよりは、固まった筋肉を無理やり引き剥がすような作業なのだから。

 だが、北斎は「やめろ」とは言わない。


「もっとだ! もっと深く、骨の隙間に指をねじ込め!」

「これ以上やったら、骨が折れちまいますよ!」

「折れても構わん! 動かねぇ腕なんざ、ついている意味がねぇんだ! 壊してでも動かせ!」


 狂気だった。

 北斎は、自分の体を道具としてしか見ていない。錆びついた道具を、叩いて、削って、無理やり使えるようにしようとしている職人の目だ。

 吉治は脂汗を流しながら、老人の背中を揉み続けた。

 

「そこじゃねぇ! 三寸右だ! 下手くそ!」

「うるせぇな! 俺は按摩(あんま)じゃねえんだ、蕎麦屋だぞ!」

「蕎麦屋なら粉を捏(こ)ねるみてぇに気合を入れろ! ……あぐぅッ!!」


 悲鳴とも怒号ともつかない声が、狭い部屋に響く。

 最初は恐る恐るだった吉治も、最近では北斎の罵倒に言い返すようになっていた。

 奇妙な連帯感だった。

 患者と看護人ではない。壊れた機械を修理しようと悪戦苦闘する、親方と弟子のような関係。


 一通り体を揉み終わると、次は北斎自身による「訓練」が始まる。

 これが、吉治にとって最も見るのが辛い時間だった。


 北斎は、動く左手で、動かない右手を掴む。

 そして、無理やり持ち上げる。

 右腕はダラリと力なく、まるで死体の腕のように重力に従って垂れ下がろうとする。

 それを、左手の力だけで空中に固定し、筆を持たせる真似をするのだ。


「動け……動け、この役立たずがッ!」


 北斎は歯を食いしばり、全身を震わせて念じる。

 額から玉のような汗が吹き出し、こめかみの血管が切れそうに浮き上がる。

 端から見れば、滑稽な光景かもしれない。

 自分の腕と喧嘩をしている老人。

 だが、その形相は鬼気迫るものがあった。


「先生、もういいでしょう。今日は十分やりましたよ」


 吉治が見るに見かねて声をかける。

 痛々しいのだ。

 かつて神業のような筆捌きを見せた右手が、今はただの重りになっている。その現実を、毎日毎日、自分の目の前で突きつけられる北斎の屈辱を思うと、胸が苦しくなる。


「黙ってろ……!」


 北斎は荒い息で遮った。

 左手で右の手首を掴み、強引に紙の上へ持っていく。

 筆先が紙に触れる。

 だが、指に力が入らない。筆はコロンと転がり、墨の染みを作るだけだ。


「くそッ! くそッ! なぜだ! なぜ掴めん!」


 北斎は左手で自分の右手を殴りつけた。

 バシン、バシンと乾いた音が響く。

 自分の肉体への激しい憎悪。


「先生! やめてください!」


 吉治は慌てて北斎の腕を押さえつけた。

 老人の体は熱く、小刻みに震えている。


「なんで……なんで、そこまでして……」


 吉治の口から、ずっと抱えていた疑問がこぼれ落ちた。

「命は助かったんですよ。右手はダメでも、左手があるじゃありませんか。娘さんもいる。隠居して、のんびり暮らしたってバチは当たらないでしょう。……なんで、自分をそこまで痛めつけるんですか」


 北斎の動きが止まった。

 乱れた白髪の隙間から、ギラついた左目が吉治を射抜く。


「……のんびり暮らす、だと?」


 低く、地を這うような声。

「小僧。お前、俺が何歳か知ってるか」

「えっ? ……六十、八とか、九とか……」

「六十九だ。来年は古希(こき)だ」


 北斎はフンと鼻を鳴らした。

「世間じゃあ、還暦過ぎれば余生だの隠居だのとほざく。……だがな、俺にとっちゃあ、六十までの画なんてのは全部『ゴミ』だ」

「ゴミって……あの『北斎』の絵がですか?」

「ああそうだ。五十の頃の絵を見返すと吐き気がする。六十の絵も恥ずかしくて破り捨てたくなる。……ようやく、ようやくだぞ。七十を目前にして、やっと『物の形』ってやつが見えかけてきたんだ」


 北斎の目に、狂気じみた熱が宿る。

「猫一匹、雀一羽描くのにも、骨がどうなって、筋肉がどう動くか、ようやく分かってきた。……これからなんだよ。今からが、俺の本番なんだ」


 吉治は言葉を失った。

 六十九年。

 普通なら人生の幕引きを考える歳だ。

 なのに、この老人は「今からが本番」だと言う。過去の栄光など一顧だにせず、まだ見ぬ高みだけを見上げている。

 この飢餓感はなんだ。

 この終わりのない渇望は、どこから湧いてくるんだ。


「神様が俺に『描け』と言って命を拾わせたんなら、応えるしかねえだろう。……俺はな、死ぬのが怖いんじゃねぇ。今日より上手くなれねぇまま、明日を迎えるのが怖いんだ」


 北斎は、動かない右手を見つめた。

 その目には、慈愛と憎悪がないまぜになった複雑な光が宿っていた。


「……この腕は、まだ死んじゃいねぇ。俺が諦めない限り、こいつも諦めねぇはずだ」


 そう呟くと、北斎は再び柚子煮の残りを煽り、今度は左手で筆を執った。

 そして、反故紙の裏に、猛然と何かを描き始めた。

 右手のリハビリに疲れた鬱憤を晴らすかのような、荒々しい筆致。

 描いているのは、ダルマだ。

 手足のない、赤い衣のダルマ。

 だが、そのダルマの目は、北斎自身の目と同じように、カッと見開かれ、虚空を睨みつけていた。


 吉治は、その姿を呆然と見つめていた。

 怖い。やはりこの人は怖い。

 だが、その恐怖の底に、今まで感じたことのない熱い塊が生まれているのを感じた。

 人間は、ここまで強欲になれるのか。

 ここまで、ひとつのことに命を懸けられるのか。

 毎日蕎麦を運び、小銭を稼ぎ、なんとなく生きて死んでいく自分と、この泥沼の中でもがき苦しみながら光を掴もうとする老人。

 生き物としての「格」が違う。

 そう思わされると同時に、猛烈な憧れが胸を焦がした。

 俺も、何か一つでいい。

 死ぬ時に「まだ足りない」と泣けるほど、何かに熱中してみたい。


「……先生」

「なんだ」

「また明日も来ますよ。……柚子、もっといいやつ探してきやすから」


 北斎は答えなかった。

 だが、筆を動かす背中が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。


 それから数日後。

 季節外れの雪が降った朝のことだった。

 吉治がいつものように柚子を抱えて長屋を訪れると、部屋の中から奇声が聞こえた。


「動いた! 動いたぞッ!!」


 慌てて戸を開けると、北斎が子供のように涙を流しながら、自分の右手を掲げていた。

 その指先が、ピクリ、ピクリと、まるで生まれたての虫のように痙攣している。

 お栄が、部屋の隅で腕組みをしてニヤリと笑っていた。

「しぶといジジイだねぇ。本当に地獄から這い上がってきやがった」


 吉治は、掲げられたその震える指先を見て、不覚にも泣きそうになった。

 ただ指が動いただけだ。

 それだけのことが、どんな名画を見るよりも、神々しく見えた。

 雷神は、死んでいなかった。

 一度落ちた雷が、再び天へと昇ろうとしている。

 その「兆し」が、薄暗いゴミ屋敷の中に、確かな光となって差し込んでいた。

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