毒舌娘・お栄

雨は夜になっても止まなかった。

霙(みぞれ)混じりの氷雨は、古びた長屋の屋根を容赦なく叩き続け、天井の隙間から落ちる雨漏りの雫が、タライの中で不吉なリズムを刻んでいる。

ポチャン、ポチャン、と響くその音は、まるで弱っていく老人の心音のように、吉治の耳にこびりついて離れなかった。


吉治は、部屋の隅で膝を抱えていた。

全身泥だらけで、着物はまだ濡れたままだ。雨戸の隙間から容赦なく吹き込む隙間風が、濡れた肌から体温を奪っていく。

寒さが骨まで沁みているはずだが、震えは不思議と止まっていた。

いや、恐怖と絶望で、感覚そのものが麻痺しているのかもしれない。

目の前には、布団に寝かされた北斎がいる。

先ほど帰っていった医者の言葉が、呪いのように脳裏で反響していた。


「……命に別状はないが、右半身の麻痺は残るだろう」


医者は、さじを投げるように言った。その声には、憐れみよりも、諦念が色濃く滲んでいた。

「六十を過ぎての中風だ。ましてや、あの歳だ。今夜を越せただけでも奇跡に近い。……だが、もう以前のように筆を持つことはできまい。諦めるよう、ご家族に伝えなさい」


諦めろ。


吉治はその言葉を、呆然と反芻していた。

あの「画狂」と呼ばれた男から、画を奪う。それは、死ねと言われるよりも残酷な宣告に思えた。

北斎は、今は眠っている。

呼吸は荒く、時折「ヒュー、ヒュー」と壊れた笛のような音をさせて喉を鳴らすが、泥のように深い眠りに落ちていた。


行灯(あんどん)の揺れる火影に浮かび上がるその顔は、土気色に淀み、右半分が溶けたように歪んだままだ。

もう、あの眼光を見ることはないのだろうか。

あの龍のような雲を幻視し、波の時間を止め、森羅万象を紙の上に封じ込める、あの魔法のような力は、永遠に失われてしまったのだろうか。


「……終わったんだ」


吉治は独りごちた。声に出すと、その事実が決定的なものとして胸に突き刺さった。

涙が滲んだ。悔しかった。北斎の無念を思うと、赤の他人である自分ですら胸が張り裂けそうになる。


神様は、なんて惨いことをするんだ。


あれほどの才能を与えておきながら、最後はこんなゴミ溜めの中で、動かない肉体に閉じ込めて殺すのか。

吉治が顔を覆い、嗚咽を漏らしそうになった、その時だった。


ダンッ!!


入り口の戸が、乱暴に蹴破られるように開け放たれた。

湿った風と共に、冷気がドッと吹き込んでくる。行灯の火が激しく揺れ、部屋中の影が踊った。


「……ここかい」


低い、男のような声だった。

吉治は驚いて顔を上げた。

逆光の中に、人影が立っていた。

笠もかぶらず、ずぶ濡れのまま突っ立っている。髪は雨で張り付き、肩からは水滴が滴り落ちて、床板に染みを作っている。

男物の着物を無造作に着流し、懐手をして、土足のままズカズカと上がり込んできた。


吉治の前まで来て、初めて女だと分かった。

歳は三十半ばだろうか。化粧っ気など微塵もない。浅黒い肌に、意志の強そうな太い眉。そして、何より印象的なのは、その顎(あご)だ。

男のように突き出した顎と、切れ長の目。

美人とは言い難い。だが、その顔立ちには、どこか見覚えがあった。


北斎だ。

あの老人の面影を、若くして、さらに鋭利な刃物のように研ぎ澄ませたような顔だった。


「あ、あんた、誰だ!?」


吉治が立ち上がると、女はチラリとこちらを一瞥した。

その視線には、吉治に対する興味など欠片もない。ただの「障害物」を見るような、冷ややかな目だった。


「誰だっていいだろう。……鉄蔵(てつぞう)はどこだい」


鉄蔵。

北斎の、昔の名だ。吉治も噂で聞いたことがある。


女は吉治を無視して、奥の布団へと歩み寄った。

その足取りには、病人を気遣うような慎重さは微塵もない。ゴミの山を大股でまたぎ、散乱した反故紙や絵草紙を踏みつけにして進む。

バリバリと、誰かが心血を注いだ作品が踏み砕かれる音がした。吉治が思わず顔をしかめるのも構わず、女は北斎の枕元に仁王立ちになり、見下ろした。


「……へえ。こりゃ酷いね」


女は、短く言った。

その声には、驚きも、悲しみも、焦燥もなかった。

ただ、壊れた茶碗の欠け具合を確認するような、あるいは焼き損じた陶器を検分するような、冷徹な職人の響きがあった。


「あ、あんた、娘さんか!?」


吉治はようやく理解した。

北斎には、同じく絵を描く娘がいると聞いたことがある。確か名は、お栄(えい)といったか。

だが、今の吉治には、そんなことはどうでもよかった。

この女の態度が、あまりにも冷酷に見えたからだ。


「見りゃ分かるだろ! 大変なんだよ、先生は! 中風で倒れて、医者からも『もう描けない』って……!」


吉治は必死で訴えた。この悲劇を、絶望を、共有したかった。一緒に泣いてほしかった。

だが、お栄は鼻で笑った。


「描けない? へっ、藪医者が偉そうに」


お栄は濡れた懐から煙管(キセル)を取り出すと、行灯の火で慣れた手つきで火をつけた。

スーッと息を吸い込み、紫煙を天井に向けて長く吐き出す。

その煙が、雨漏りの湿気と混じり合い、部屋に気怠い空気を漂わせる。


「描けないなら、死んだも同然だろ。だったら、なんでまだ息をしてるんだい、このクソ親父は」

「なっ……!」


吉治は絶句した。

自分の親が死にかけているのだ。それなのに、この言い草は何だ。

普通の人間なら、泣き崩れるか、神に祈るか、せめて手を握るものではないのか。


「あんた、それでも娘か! 先生は苦しんでるんだぞ! もっと優しく……」

「優しく?」


お栄が、ギロリと吉治を睨んだ。

心臓が止まるかと思った。

その目は、北斎のそれと同じだった。

いや、北斎の目が「獲物を狙う獣」だとしたら、この女の目は「切れ味を試す辻斬り」の目だ。冷たく、理知的で、そして底知れない狂気を孕んでいる。

吉治は本能的に後ずさりした。


「あのねぇ、出前持ちの兄ちゃん。勘違いするんじゃないよ」


お栄は煙管の灰を、北斎の枕元の畳にトントンと落とした。火の粉が散り、焦げた匂いが立ち上る。

 

「アタシらはね、仲良しこよしの親子ごっこをしてるんじゃないんだ。こいつは親父である前に、絵師だ。アタシもそうだ。……絵師が筆を持てなくなったら、それは人間が呼吸を止めるよりタチが悪いんだよ」

「だ、だからって……」

「優しくして治るなら、いくらでも優しくしてやるさ。でもね、こいつはそんな安い情けじゃ起き上がらないよ。……鉄蔵、聞こえてるんだろ?」


お栄は、突然、北斎の耳元に顔を寄せた。

濡れた髪から滴り落ちる雫が、北斎の頬に落ちる。

そして、低い、地を這うような声で囁いた。


「おい、いつまで寝てんだ。……右手が利かないなら、左手があるだろう。口があるだろう。足があるだろう」


それは、見舞いの言葉ではなかった。

呪詛(じゅそ)だ。

あるいは、地獄の底から亡者を呼び戻す、悪魔の契約だ。


「まさか、このまま『ただの老人』としてくたばる気じゃないだろうね? ……描きかけの絵はどうするんだい。あんたが描かなきゃ、アタシが続きを描いて、あんたの名で売ってやるよ。北斎の名は、アタシが継いでやる」


挑発だった。


最も残酷で、最も北斎の自尊心を逆撫でする言葉。

娘としてではなく、一人の絵師として、ライバルとしての宣戦布告。

吉治は震えた。

なんて女だ。鬼だ。血も涙もない。


だが――。

その時だった。


「……う、ぅ……ッ!!」


死人のように眠っていた北斎の喉から、獣のような唸り声が漏れた。

瞼が、痙攣するように開く。

白濁していた瞳に、一瞬、稲妻のような光が走ったのを吉治は見た。

それは、娘の顔を見た安堵などではない。


怒りだ。

お栄に対する、強烈な殺意と、煮えたぎるような対抗心。

 

北斎の左手が、敷妙(しきたえ)を握りしめた。

関節が白くなるほど強く、爪が布を裂くような音を立てる。


「お……、の、れ……」


聞き取れないほどの掠れ声。泡混じりの呻き。

だが、それは確かに言葉だった。

お栄は、それを見てニヤリと笑った。

その笑顔は、吉治が今まで見たどの女の笑顔よりも、凶悪で、そして妖艶なまでに美しかった。


「なんだ、生きてるじゃないか」


お栄は立ち上がると、吉治の方を向いた。


「おい、兄ちゃん」

「は、はい!」

「水じゃないよ。……墨を持ってきな」

「は……?」

「親父が描きたいって言ってるんだ。水なんか飲ませても治らないよ。こいつの薬は、墨と紙だ」


正気か、と思った。

この親子は、狂っている。

死の淵に立ってもなお、命を繋ぐことより、線を引くことを選ぼうとしている。

ここには、吉治の知る「人の情け」や「常識」が通用しない、別の恐ろしい理屈が支配している。


この部屋だけ、時間の流れも、命の重さも、すべてが捻じ曲げられているのだ。

それは凡人から見れば地獄だが、彼らにとっては、それこそが唯一の極楽なのかもしれない。


吉治は、ガタガタと震えながら立ち上がった。

怖い。

この親子に関わってはいけない。こちらの世界に戻れなくなる。

だが、足は勝手に動いていた。

散乱した床から、倒れていない墨壺と、まだ使える筆を探し出す。

 

「……へい、お待ち」


震える手で渡すと、お栄は無造作にそれを受け取り、北斎の左手に筆を握らせた。

北斎の指が、筆の感触を確かめるように、微かに動く。

その瞬間、老人の歪んだ顔から苦悶の色が消え、恍惚とした表情が浮かんだのを、吉治は見た。

雨の音も、風の音も、遠ざかっていく。

ただ、墨の匂いだけが、濃厚に立ち込めていた。


外では、雷鳴が遠ざかり始めていた。

だが、この狭い部屋の中には、まだ目に見えない嵐が吹き荒れている。

天才という名の業火に焼かれる二人の姿を見ながら、凡人である吉治は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。


自分は、見てはいけないものを見ている。

だが、どうしても目を逸らすことができなかった。

その地獄のような光景が、あまりにも眩しかったからだ。

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