雷鳴と静寂

冬が来た。


江戸の冬は、容赦がない。

赤城おろしと呼ばれる空っ風が連日吹き荒れ、路地の埃を巻き上げ、人々の肌から水分を奪い去っていく。

だが、その日の江戸は、いつもの乾いた寒さとは違っていた。

朝から重苦しい鉛色の雲が空を低く覆い、街全体が巨大な蓋をされたように圧迫されていた。昼過ぎには、季節外れの雷鳴がドロドロと地を這うように轟き、人々の不安を煽った。


寒起(かんおこ)しだ。

冬の雷は不吉の象徴とされる。古老たちは「天が怒っている」と口を閉ざし、女子供は雷鳴が過ぎ去るのを縮こまって待っていた。


そんな嵐の前触れの中、長寿庵の店内もまた、重苦しい空気に包まれていた。

「ちくしょう、こんな日に限って……」

吉治は岡持の紐をきつく締め直しながら、誰にともなく悪態をついた。

よりによって、あの「魔窟」からの注文が入ったのだ。

他の出前持ちは皆、雷を理由に外へ出るのを渋っていた。


「おい吉治、やめとけ」


店主が帳場の奥から声をかけた。珍しく気遣わしげな顔をしている。

「南割下水までは遠い。それに、この空だ。一雨来るぞ。……あの爺さんのとこなら、どうせいつ行っても同じだ。放っておけ」

店主の言うことはもっともだった。たかが蕎麦一杯。嵐の中を命がけで運ぶほどの価値はない。

だが、吉治の足は止まらなかった。


「……いや、行ってきます」

「なんだお前、物好きだな」

物好きなのではない。胸騒ぎがしたのだ。

さっきの雷鳴を聞いた時、脳裏に鮮烈に浮かんだのは、あの老人のギラついた目だった。

あんなボロ屋だ。風で屋根が飛んでいるかもしれない。あるいは、凍えて動けなくなっているかもしれない。

そして何より、あの老人が、この雷鳴をどう「見て」いるのか、どうしても確かめたいという、奇妙な衝動が吉治を突き動かしていた。


店を出ると、冷たい風が頬を切り裂くように打ち付けてきた。

ポツリ、ポツリと、大粒の雨が降り始める。

吉治は笠を深くかぶり直し、走り出した。

雨はすぐに本降りになり、やがて白い霙(みぞれ)へと変わった。

バチバチと音を立てて体に打ち付ける氷の粒。足袋は泥水でぐしょ濡れになり、感覚がなくなっていく。岡持を持つ手は凍えた魚のように白く、動かなくなっていた。

息が白い。心臓が痛いほど早鐘を打っている。

本所から南割下水への道のりが、今日ばかりは永遠のように長く感じられた。

すれ違う人は誰もいない。世界から色が消え、自分だけが灰色の闇の中を走っているような錯覚に陥る。


「先生……生きててくれよ」

 

不意に、そんな言葉が口をついて出た。

なぜそんなことを思ったのか、自分でも分からない。ただ、あの強烈な生命力の塊のような老人が、ふっと消えてしまうのではないかという、根拠のない、しかし確信めいた恐怖が胸を締め付けていた。


ようやく長屋の一角に辿り着いた時には、日は暮れかけ、辺りは墨を流したような闇に包まれていた。

周囲の家々は雨戸を固く閉ざし、墓場のように静まり返っている。

北斎の住む長屋もまた、深い闇の中に沈んでいた。

いつもなら、戸の隙間から漏れてくるはずの行灯の明かりが見えない。

雨音と風鳴りだけが、ゴウゴウと耳を打ち続けている。


「先生! 長寿庵です!」


吉治は雨音に負けないよう、腹の底から声を張り上げた。

返事はない。

ただ、風が吹き抜けるたびに、外れかけた戸板がガタガタと悲鳴を上げているだけだ。

吉治は泥だらけの手で、濡れた戸に手を掛けた。

鍵はかかっていない。

ズズ……と、いつもより重たい音を立てて、戸が開く。


その瞬間、吉治は顔をしかめた。

闇だった。


外の光が一切差し込まない室内は、深海のような濃密な暗闇に支配されている。

そして、臭った。

いつもの腐った紙や墨の臭いではない。

もっと生々しい、鉄錆のような臭いと、何か生き物の内臓が腐りかけたような甘たるい腐臭。それに、鼻を突く強烈な尿臭。

排泄物の臭いだ。

吉治の勘が、最悪の警鐘をジャンジャンと鳴らす。


「先生……?」


恐る恐る、暗がりに足を踏み入れる。

足元で、何かが濡れていた。

ニュルリとした感触。雨漏りか? いや、もっと粘り気がある。

吉治は手探りで懐から火打道具を取り出した。指がかじかんで、何度も火花を散らすのに失敗する。


カチ、カチッ。


ようやく種火がつき、手近にあった行灯に火を灯した。

ポッ、と小さな炎が揺れる。

その頼りない明かりが照らし出した光景に、吉治は息を呑み、絶句した。


「……あ」


そこは、戦場の跡だった。

いつものゴミの山が、何者かが暴れた後のように激しく散乱している。積み上げられた書物は崩れ落ち、反故紙が泥のように床を埋め尽くしていた。

そして、部屋の中央。

黒い水溜まりが広がっていた。倒れた墨壺から流れ出した墨汁だ。

その漆黒の海の中に、一人の老人が沈んでいた。


「先生ッ!!」

吉治は岡持を放り出し、泥足のまま駆け寄った。

北斎だった。

布団の上ではなく、硬い床板の上に、ゴミ屑のように転がっている。

普段着ているボロ着物は墨で真っ黒に汚れ、下半身は排泄物で濡れそぼっていた。


死んでいる。


直感的にそう思った。体が異様にねじれ、人間とは思えない格好で固まっているからだ。

あの、かつて吉治を射すくめた覇気は微塵もない。ただの、薄汚れた肉の塊がそこにあった。


吉治は震える手で、老人の肩を抱き起こした。

重い。死体のように重い。

触れた肌は、氷のように冷たかった。

だが、首筋に微かな脈動があった。

「先生! しっかりしてください! 先生!」

体を強く揺する。

すると、老人の瞼(まぶた)が、ピクリと動いた。

ゆっくりと、薄目が開く。

 

その目を見て、吉治は喉の奥で悲鳴を上げた。

あの眼光ではない。

あの、世界を射抜くような鋭い光はどこにもなかった。

あるのは、焦点の定まらない、白濁した硝子(ガラス)玉のような瞳。虚空を彷徨い、何も映していない。

そして、顔の右半分が、溶けた蝋細工のようにだらりと垂れ下がっていた。

口元が歪み、締まりのない唇から、止めどなく涎(よだれ)が糸を引いて流れ落ちている。


「あ……ぅ……」


北斎の喉がゴロゴロと鳴った。

何かを言おうとしている。だが、舌が回っていない。

言葉にならない空気が、ヒューヒューと漏れるだけだ。

その唇の端からは、泡立った涎と共に、赤黒い血が混じっていた。倒れた拍子に舌を噛んだのだろうか。


「喋らないで! 今、医者を……!」


吉治が叫ぶと、北斎の左手が、微かに動いた。

痙攣するように、何もない空を掴もうとしている。

吉治の袖か? 助けを求めているのか?

違う。

老人の指先は、吉治を通り越し、床に落ちている筆に向かっていた。

墨まみれになり、穂先の割れた一本の筆。

北斎は、それを掴もうとして、必死に指を伸ばしているのだ。

 

「あ……う、が……」


右手が動かない。

利き腕であるはずの右手が、完全に死んでいる。

かつて龍を描き、波を止め、森羅万象を紙の上に封じ込めたあの「神の腕」が、今はただの肉の棒となってぶら下がっている。

自分の意思を裏切り、鉛のように動かない体。

その事実が、吉治には耐え難いほどの恐怖だった。


中風(ちゅうぶ)だ。

誰の目にも明らかだった。

脳の中で何かが切れ、雷が落ちたのだ。

あの不吉な雷鳴は、空ではなく、この老人の頭の中で轟いたのだ。

 

吉治は、北斎の冷たい左手を両手で握りしめた。

「先生、お願いですから、じっとしててください! 筆なんていい! そんなことしてる場合じゃねえでしょう! 死んじまいますよ!」

 

筆なんていい。

その言葉を聞いた瞬間だった。

北斎の焦点の定まらなかった瞳が、ギロリと吉治を捉えた。

濁った左目が、一瞬だけ、燐光のように青白く光った。

それは助けを求める目ではなかった。

怒りだ。

自分の思うように動かない肉体への、煮えたぎるような憤怒。

そして、筆を否定した吉治への、殺意に近い苛立ち。

 

 ——俺を見ろ。

 ——俺はまだ、描くぞ。


声にならない咆哮が、その瞳から聞こえた気がした。

吉治は、恐怖で震え上がった。

この期に及んで、この人はまだ「生」にしがみついているのではない。「画」にしがみついているのだ。

人間としての尊厳が崩れ落ち、泥と糞尿にまみれ、半分死体のような姿になってもなお、筆を求めて足掻くその姿は、あまりにも醜く、そして神々しいほどに凄惨だった。

これは、人間ではない。画(え)に取り憑かれた、悲しい化け物だ。


このままでは、本当に死ぬ。

この火が消えてしまう。

吉治は弾かれたように立ち上がった。


「待っててください! すぐに医者を連れてきます! 一番いい医者を! ……死なせやしませんから!」

自分でも何を言っているのか分からなかった。ただ、叫ばずにはいられなかった。

吉治は、墨の海に沈む老人を残し、再び雨の降る外へと飛び出した。


走った。


泥を跳ね上げ、転びそうになりながら、南割下水の暗い路地を疾走する。

冷たい霙が頬を叩くが、もはや寒さなど感じなかった。

頭の中にあるのは、あの歪んだ老人の顔と、墨まみれの床に転がっていた筆の姿だけだ。


化け物は、不死身だと思っていた。

あの眼光がある限り、どんな病も、老いも、死神さえも寄せ付けないと思っていた。

だが違った。

あれもまた、脆く、壊れやすい人の器だったのだ。

中風になれば体は動かなくなり、言葉は奪われる。

ただの肉塊になり果てる。

 

「くそっ、くそっ、くそっ!」


吉治は泣きながら走った。涙と雨が混じり合って口に入り、しょっぱい味がした。

悲しいのではない。怖いのだ。

あれほどの才気、あれほどの情熱を持ってしても、肉体の限界には勝てないのかという絶望。

神様がいるなら、あんまりじゃないか。

あんなに描きたがっている人間から、手と声を奪うなんて。

 

遠くで、また雷が鳴った。

ドロドロと低い地鳴りのような音が、江戸の空を覆っている。

吉治は、その雷鳴が、北斎の絶叫のように聞こえてならなかった。

終わりだ。何もかも終わった。

誰もがそう思うだろう。

だが、吉治の脳裏には、最後に一瞬だけ見せた、あの憤怒の瞳が焼き付いていた。

 

——まだだ。


そんな声が、嵐の向こうから聞こえた気がした。

吉治は足を速めた。闇を切り裂くように、ただひたすらに走り続けた。

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