奇妙な常連客
人は、怖いものほど見たがる生き物だという。
あの夏の日、南割下水で味わった戦慄は、吉治にとって一種の「麻薬」のようなものだったのかもしれない。
「二度と行くまい」という誓いは、驚くほどあっけなく破られた。
長寿庵の暖簾(のれん)をくぐってくる、あの「魔窟」からの注文。
「おい、南割下水だぞ。誰か行ってこい」
店主の声が響くと、店内の空気は一瞬にして凍りつく。出前持ちの辰は急に腹を押さえて呻き出し、他の連中は目を逸らして忙しいふりを始める。誰もが行きたがらない。誰もが関わりたくない。
そんな時、吉治は自ら手を挙げるようになっていた。
「……俺が、行きます」
それは義侠心からではない。ましてや親切心などでは断じてない。
ただ、確認したかったのだ。
あの日の恐怖は幻だったのか。あの眼光は、本当にこの世のものだったのか。
平穏な日常に飽き足りていた若き日の吉治にとって、あの老人の部屋だけが、唯一、血が騒ぐ「本物の世界」への入り口に見えていたのかもしれない。
季節は巡り、秋風が路地の埃を巻き上げる頃には、吉治はこの魔窟の奇妙な常連客、葛飾北斎(かつしかほくさい)という老人の異様な生態に、すっかり詳しくなっていた。
知れば知るほど、この老人は「人間」の枠から外れていた。
まず、この老人は「食う」という行為を、生命の維持以外には一切使おうとしない。
人間なら誰しも持っているはずの「美味いものを食いたい」という欲求が、ごっそりと欠落しているのだ。
出前を持っていっても、筆が乗っている時は見向きもしない。
夕方、器を回収に行くと、蕎麦がカピカピに乾いて餅のようになっていることがしばしばあった。
「先生、これ、食べてないじゃありませんか」
吉治が呆れて言うと、北斎は「ああ?」と面倒くさそうに顔を上げ、その乾いた蕎麦の塊を掴んで口に放り込むのだ。
咀嚼(そしゃく)もしない。蛇が獲物を丸呑みするように、喉の奥へと押し込む。
そこには味わうという過程がない。ただ、燃料を補給しているだけだ。
ある時、吉治が気を利かせて、奮発して天ぷら蕎麦を持っていったことがあった。
だが北斎は、衣がふやけてドロドロになったそれを、やはり無表情で飲み下しただけだった。
「……味、しますかい?」
「味がして腹が膨れるか」
北斎はそう吐き捨てると、すぐに筆を執った。
吉治は、空になった器を見つめながら、背筋が寒くなるのを感じた。この人は、生きるために食っているのではない。描くために、死なないようにしているだけなのだ。
そのくせ、「金」に対する執着のなさは、狂気の沙汰だった。
長寿庵の蕎麦は決して安くはないが、北斎の支払いは常に雑だった。
ある時、吉治がいつものように行灯の下から代金を取ろうとすると、小銭が切れていたことがあった。
「あの、先生。お代が足りませんが……」
「うるせぇな」
北斎は筆を止めることなく、足元に転がっていた薄汚い紙包みを足で蹴り出した。
その扱いがあまりに粗雑だったので、吉治はゴミかと思った。
だが、包みが解け、中から小判がゴロリと転がり出た時、吉治は悲鳴を上げそうになった。
一両、二両ではない。目が眩むような黄金の塊が、埃まみれの床に転がっているのだ。
「ひっ! こ、小判!?」
「釣りなんざいらねぇ。その包みごと、とっとと持ってけ」
「いや、そんなわけにはいきません! 蕎麦一杯にこんな大金、店主が腰を抜かしちまいます!」
「なら、その辺の紙屑でも持ってけ。後で紙屋に売れば金になる」
「紙屑って……」
北斎は苛立たしげに舌打ちをした。
「金なんてのはな、絵の具を買うか、時間を買うためにあるんだ。いちいち数えてる時間が惜しい。持ってかねえなら、ドブにでも捨てとけ」
本気だった。この老人は、世の中の人間が血眼になって追いかけ、時には殺し合いまでして奪い合う「金」というものを、単なる絵を描くための道具、あるいは排泄物と同程度にしか考えていないのだ。
結局、吉治は震える手で小判を預かり、店に戻った。
店主は目を剥いて驚き、翌日からは「先生様」と呼ぶようになったが、吉治の中での北斎への畏怖は深まるばかりだった。
世間の物差しが、この部屋では一切通用しない。ここでは、金も名誉もゴミ屑で、ただ「線一本」だけが神のような絶対的価値を持っているのだ。
そして何より吉治を困惑させたのは、その常軌を逸した「引越し癖」だった。
吉治が通い始めてたった数月の間に、北斎は二度も居を変えた。
理由は単純にして不可解。「掃除をするのが面倒だから」。
部屋がゴミで埋まり、異臭が鼻についてくると、片付けるよりも引っ越した方が早いという、常人には理解し難い理屈で、近所の空き長屋を転々とするのだ。
ある日のことだ。いつもの長屋に行くと、もぬけの殻になっていた。
「おいおい、嘘だろ……」
吉治は重たい岡持を提げたまま、南割下水の路地を彷徨い歩く羽目になった。
近所の住人に聞き込みをし、ようやく見つけた新しい住処は、前の場所よりもさらに酷い、あばら屋だった。
雨戸は外れかけ、床板は腐り、天井からは空が見えている。
だが、部屋の中央にはすでに新しいゴミの山が築かれ、その頂上で北斎が筆を走らせていた。
「ここなら、誰にも気兼ねなく描ける」
そう言ってニヤリと笑った北斎の歯には、黒い墨がこびりついていた。吉治は、この老人がもはや「住居」という概念すら持っていないことを悟った。雨露がしのげ、筆が動かせれば、そこが地獄の底でも構わないのだ。
そんな奇妙な交流が続き、空が高く澄み渡る秋の昼下がりのことだった。
その日、江戸の上空には、刷毛(はけ)で掃いたような見事な鰯雲(いわしぐも)が広がっていた。
吉治が新しい引越し先——もう何軒目か数えるのもやめた——を訪ねると、珍しく北斎が筆を置いていた。
「……へい、お待ちどう」
吉治が部屋に入ると、北斎は窓枠に肘をつき、ぼんやりと外を眺めていた。
いつもなら部屋中に充満している殺気立つような「気」が、嘘のように消えている。
静かだった。
外を吹く風の音だけが、ヒューヒューと隙間風となって部屋を通り抜けていく。
その背中が、いつになく小さく、そして儚く見えた。
もしかして、寝ているのか? それとも、ついにボケたか?
吉治が音を立てずに蕎麦を置こうとした、その時だ。
「……おい、小僧」
唐突に声をかけられ、吉治はビクリと肩を震わせた。
北斎は振り返りもしない。ただ、じっと空を見上げている。その声は、独り言のように低く、しかし熱を帯びていた。
「へ、へい。なんでしょう」
「あれが、何に見える」
北斎の枯れ枝のような指が、窓の向こうの空を指した。
吉治はつられて空を見上げた。
そこには、無数の小さな雲片が群れをなし、西から東へと流れている。秋の空によくある、何の変哲もない鰯雲だ。
「何って……雲でしょう? 鰯雲っていうか、鯖雲っていうか」
「そうじゃねぇ」
北斎が苛立たしげに舌打ちをした。
バッ、と振り返ったその顔を見て、吉治は息を呑んだ。
ボケてなどいなかった。むしろ、その逆だ。
その目は、獲物の急所を見つけた獣のように、異様なほどにギラついていた。
白目の部分が充血し、瞳孔が開いている。何かに取り憑かれたような、狂気の相だった。
「形だよ、形。……俺には、あれが龍の骨に見える」
「はあ? 龍……ですか」
吉治は目を白黒させた。改めて雲を見る。どう見ても、ただのフワフワした白い塊だ。
だが、北斎は一歩、また一歩と吉治に詰め寄ってきた。
その圧迫感に、吉治は思わず後ずさりする。
「よく見ろ。あの雲の端、風に千切れてるところだ。あそこが龍のあばら骨だ」
北斎の手が伸びてきて、吉治の肩を鷲掴みにした。痛いほど力が強い。老人のものとは思えない万力のような握力だ。
「風が見えねぇか? 西から吹いてくる風が、雲の腹をえぐって、肉を削ぎ落として、骨を剥き出しにしてるんだよ」
「風が……えぐる?」
「そうだ。雲ってのは、ただ浮いてるんじゃねぇ。風という巨大な力に押されて、抵抗して、ねじ切られて、あんな形になるんだ。……その『力』が見えねぇのか、お前には」
北斎の顔が目の前にあった。
その瞳の奥には、吉治が見ているのとは全く違う景色が映っているようだった。
吉治には穏やかに「止まっている」ように見える雲が、この老人には、激しい力の奔流の中でのたうち回り、身をよじらせる、巨大な獣の死骸に見えているのだ。
目に見えない風の動き。大気のうねり。
それらを、この老人は幻視している。いや、見えすぎてしまっているのだ。
——怖い。
吉治は本能的にそう思った。
この人と一緒にいると、自分が見ている世界が偽物のように思えてくる。
自分が信じている「平穏な日常」という床板が、バリバリと剥がされていくような不安。
「……見えやせんよ」
吉治は声を絞り出した。
嘘をついて合わせることもできた。だが、そうしてしまえば、自分もこちらの世界に戻れなくなる気がした。
「俺はただの出前持ちですから。雲は雲、蕎麦は蕎麦です。……龍なんて、どこにもいやしません」
「ふん、つまらねぇ男だ」
北斎は興味を失ったように手を放した。
その瞬間、吉治の肩から重圧が消えた。
北斎はドカリと座り込み、出されたばかりの蕎麦を手繰り始めた。
ズルズル、ズルズルと、下品な音を立てて啜る。
その姿は、先ほどまで空の理(ことわり)を説いていた哲学者とは別人のような、ただの意地汚い、偏屈な老人だった。
吉治は逃げるように長屋を出た。
外の空気は冷たく、澄んでいた。
空を見上げる。
やっぱり、ただの雲だ。龍の骨なんてどこにもない。
そう自分に言い聞かせる。だが、ほんの少しだけ、胸の奥がざわついていた。
見えない、ということは、無いということなのだろうか。
あの老人が見ている世界こそが「本物」で、自分たちが見ている世界は、ただの薄っぺらい皮のようなものなんじゃないか。
もし、自分にもあの「目」があったなら、この退屈な空が、あんなにも鮮烈で恐ろしい戦場に見えるのだろうか。
そんな奇妙な劣等感と、得体の知れない憧れにも似た感情が、吉治の心に澱(おり)のように沈殿していった。
そうして、季節は秋から冬へと移り変わっていく。
木枯らしが吹き始め、南割下水のドブ川に薄氷が張る頃。
吉治はまだ知らなかった。
その「目」を持つ代償として、老人の肉体にどれほどの負荷がかかっているのかを。
そして、あの「雷鳴の日」が、すぐそこまで迫っていることを。
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