雷神の麻痺
魔窟への入口
その年の夏は、江戸中が茹だるような酷暑に見舞われていた。
空は白っちゃけた鉛色に濁り、太陽というよりは煮えたぎる油の塊のようなものが、ジリジリと地上のありとあらゆる水分を奪い去っていく。
本所、南割下水(みなみわりげすい)。
その名の通り、大小の掘割と下水が入り組むこの界隈は、どこか空気が澱んでいた。
表通りの活気とは無縁の、湿り気を帯びた静寂。武家の下屋敷の黒い板塀が延々と続き、その影には痩せこけた野良犬が舌を出してへたり込んでいる。
道端のドブ川からは、強烈な日差しに炙られて腐敗した泥の臭いが立ち上り、鼻孔の奥にねっとりとこびりついた。
「ったく、なんで俺がこんなとこまで……」
吉治は、額から滴り落ちて目に入る汗を腕で乱暴に拭いながら、誰にともなく悪態をついた。
左手に提げた岡持(おかもち)が、やけに重い。中身は盛り蕎麦二枚。たかが蕎麦だが、この暑さだ。一刻も早く届けなければ、麺がダレて売り物にならなくなる。
だが、足取りはどうしても重くなる。
今日に限って出前持ちの辰が腹を下し、よりによって吉治に、この「南割下水」行きの注文が回ってきたのだ。
辰が言っていた『魔窟』の話が、嫌な現実感を持って脳裏をよぎる。
——仮病を使ってでも断れ。
——あそこは人の住処じゃねえ。
吉治は首を振って、その声を追い払った。
馬鹿馬鹿しい。怪談話で飯が食えるか。俺は長寿庵の出前持ちで、これは仕事だ。さっさと届けて、さっさと帰ればいいだけの話だ。
自分にそう言い聞かせ、吉治は路地を曲がった。
目指す長屋は、路地のどん詰まりにあるはずだった。
板塀と板塀の隙間のような、人が一人通るのがやっとの細い道を抜ける。
すると、不意に視界が開け、その異様な建物が姿を現した。
「……これか?」
吉治は思わず足を止めた。
あばら屋、と呼ぶのも憚(はば)かられるような代物だった。
かつては長屋だったのだろうが、今は柱が歪み、全体が不気味に傾いている。屋根の板はひび割れ、あちこちから雑草がツノのように突き出していた。
周囲には他の家もあるが、この一角だけ、まるで疫病でも流行ったかのように人影がない。蝉の声さえ、ここだけ避けているように聞こえない。
あるのは、圧倒的な静寂と、鼻をつく異臭だけだ。
臭う。
吉治は無意識に鼻を手ぬぐいで覆った。
長屋特有の、煮炊きの匂いや排泄物の臭いとは違う。もっと濃密で、頭の芯が痺れるような臭気。
腐った紙。饐(す)えた墨。カビの生えた畳。そして、何か生き物の脂が酸化したような、獣臭い匂いが混じり合っている。
それは、生活の匂いではなく、「停滞」の匂いだった。
何年も何年も、空気さえ入れ替えられずに澱み続け、腐り落ちていった時間の堆積物が放つ、死の香りに似ていた。
帰りたい。
吉治の本能が、強烈な警鐘を鳴らしていた。
この戸を開けてはいけない。この境界線を越えてしまえば、もうこちらの世界には戻ってこられないかもしれない。そんな理不尽な恐怖が、足元から這い上がってくる。
だが、岡持の中の蕎麦が、微かに香りを立てて吉治を現実に引き戻した。
店主の怒鳴り声が耳の奥で再生される。
吉治は意を決して深呼吸をしようとしたが、肺に入ってくるのはあの腐敗臭だけで、かえってむせ返りそうになった。
「……へい! 長寿庵でごぜぇやす!」
声を張り上げる。だが、その声は吸い込まれるように虚しく響き、すぐに静寂にかき消された。
返事はない。
風が吹き抜け、軒下の破れた簾(すだれ)がカサリと乾いた音を立てただけだ。
留守だろうか。いや、こんな場所だ。中で行き倒れて死んでいてもおかしくない。
吉治は唾を飲み込み、汗ばんだ手で、ガタつく引き戸に手を掛けた。
ズズ……、ガタッ。
建て付けの悪い戸が、悲鳴のような音を立てて開く。
その瞬間、むっとした熱気と共に、視界を埋め尽くしたのは「混沌」そのものだった。
「な……」
言葉が出なかった。
部屋ではない。ここは、ゴミ捨て場だ。
六畳ほどの板の間を、白い雪崩が埋め尽くしていた。
いや、雪ではない。紙だ。
丸められた反故(ほご)紙、描き損じの半紙、破れた帳面。それらが膝の高さまで積み上がり、足の踏み場などどこにもない。
壁際には、読み散らかされた書物が塔のように積み上げられ、今にも崩れてきそうだ。
天井からは煤(すす)が下がり、蜘蛛の巣が燭台のように光っている。
そして、そのゴミの海の中に、点々と黒いシミのように見えるのは、墨の跡か、それともカビか。
時が止まっていた。
外の真夏の太陽が嘘のように、この部屋の中だけ、じめりとした永遠の黄昏が支配している。
吉治は入り口で立ち尽くしたまま、その惨状に圧倒されていた。
人の気配がない。
やはり留守か、と思ったその時だ。
部屋の最奥。
ゴミの山だと思っていた薄暗い影の一部が、微かに蠢(うごめ)いた。
ヒッ、と吉治の喉が鳴る。
布団かボロ布の塊に見えたそれが、ゆっくりと持ち上がった。
人間だった。
いや、人間の形をした、何か別のものに見えた。
白髪は獅子のたてがみのように逆立ち、乱れ放題になっている。着ているものは垢と墨で黒ずみ、元の色が判別できない。背中は枯れ木のように曲がり、骨と皮ばかりの手足が袖から覗いている。
老人は、入り口に立つ吉治の方を向きもしなかった。
机代わりの木箱にへばりつき、右手に筆を握りしめたまま、紙の上で凝固している。
シュッ。
静寂を裂いて、筆が走る音がした。
シュッ、シュッ。
鋭く、速い。
老人は、何かと戦っているようだった。見えない敵を、筆先で切り刻んでいるような、殺気立った背中。
吉治は、声をかけることすら忘れて、その背中を見つめてしまった。
汚い老人だ。どう見ても、ただの浮浪者にしか見えない。
なのに、なぜだか目が離せない。
その背中から立ち上る湯気のような熱気が、吉治を金縛りにしていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
永遠にも、一瞬にも思える沈黙の後、吉治はようやく震える唇を開いた。
「あ、あの……お蕎麦、どこに置きやしょうか」
蚊の鳴くような声だった。
ピタリ、と筆の音が止まる。
老人の肩が、ゆっくりと動いた。
首が回り、その顔がこちらに向けられる。
その瞬間、吉治は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
目だ。
顔の皺(しわ)や、無精髭や、煤けた肌など目に入らなかった。
眼光だけが、闇の中で異様なほどにギラついていた。
七十に近い老人のはずだ。店主よりもずっと年上のはずだ。なのに、その瞳には老いの濁りなど微塵もない。
飢えた狼か。空腹の鷹か。あるいは、獲物を前にした悪鬼か。
こちらの心の臓腑まで見透かし、値踏みし、食い尽くそうとするような、貪欲で、凶暴な光。
吉治は無意識に半歩下がっていた。
蛇に睨まれた蛙。そんな言葉が頭をよぎる。
殺される、と思った。
武器を持っているわけではない。ただ睨まれただけだ。なのに、吉治の生存本能が、全力で「逃げろ」と叫んでいる。
老人は、吉治を見ていた。だが、それは人間として見ている目ではなかった。
風景の一部、あるいは邪魔な障害物として、冷徹に観察している目だった。
「……そこへ置け」
地獄の底から響くような、低く、嗄(しゃが)れた声だった。
老人は筆の尻で、部屋の隅のわずかな隙間を指した。
吉治は操り人形のように頷き、靴を脱ぐのも忘れて、ゴミの山をまたいだ。
足元でパリパリと乾いた音がする。誰かが魂を込めて描いたかもしれない絵を、踏みつけている感触。それがたまらなく恐ろしい。
指定された場所を見て、吉治は再び絶句した。
そこには、食器が塔のように積まれていた。
一週間前のものか、一ヶ月前のものか。椀の底にはどす黒く変色したつゆがこびりつき、箸には青カビが綿毛のように生えている。
吐き気がこみ上げるのを必死に堪え、吉治はその横に、新しい蕎麦を震える手で置いた。
この清潔な蕎麦が、一瞬で汚染されていくような気がした。
「だ、代金は……」
「行灯(あんどん)の下だ。小銭がある」
老人は吉治から興味を失ったように、再び紙へと視線を戻していた。
言われた場所を見ると、行灯の油皿の脇に、銭が無造作に散らばっている。埃まみれの寛永通宝だ。
吉治は逃げるように銭を掴み、代金分を数えた。指が震えて、銭を落としそうになる。
一刻も早く、この魔窟から脱出したかった。
だが、職業柄、どうしても言わなければならないことがあった。
「あ、あの……前の器は、下げさせていただきやす」
そう言って、カビだらけの器に手を伸ばしかけた、その時だ。
「ならん!!」
雷が落ちたような一喝だった。
ビクリと吉治の体が跳ね上がり、尻餅をつきそうになる。
老人は、こちらを振り向きもせずに、紙を睨みつけたまま怒鳴っていた。
「今は手元が乗ってるんだ。ガタガタ動いて、俺の気を散らすな。……とっとと失せろ」
その声には、有無を言わせぬ絶対的な王の響きがあった。
反論など許されない。存在することさえ許されない。
この空間において、この老人の「描くこと」以外は、全てが無価値であり、罪なのだと突きつけられた気がした。
「へ、へい! すんません!」
吉治は弾かれたように土間へ飛び降りた。
靴を突っかけ、転げるように戸を開け、外へと飛び出す。
戸を閉めた瞬間、強烈な西日が目を焼いた。
眩しい。明るい。
世界が急に色を取り戻したようだった。
吉治は近くの板塀に手をつき、荒い息を吐いた。
心臓が早鐘を打っている。背中には冷や汗がびっしょりと張り付いて、着物が冷たく肌に食い込んでいた。
「なんだ、あのジジイ……」
震えが止まらなかった。
客商売の自分に、礼のひとつもない。ただの偏屈なボケ老人だ。そう思おうとした。
だが、あの眼。
あの眼だけが、脳裏に焼き付いて離れない。
ただの人間ではない。あれは、何かもっと恐ろしい、業(ごう)の塊のような生き物だ。
辰の言っていた「魔窟」という言葉は、決して大袈裟ではなかった。
あそこには、人が触れてはいけない闇がある。
吉治は、二度とあそこへは行くまいと固く誓った。
逃げるように南割下水を後にする吉治の背中を、遠くで鳴くカラスの声が嘲笑っているようだった。
だが、吉治はまだ気づいていなかった。
あの強烈な眼光が放った「毒気」が、すでに自分の体の奥深くに種を蒔いてしまったことに。
それは、平凡な日常しか知らなかった若者の心に、決して消えない火種として燻り始めたのだった。
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