第4章 雷の名を持つ者



 雷は、近づくにつれて重くなった。


 空気が震え、森の奥で木々が低く唸る。フェンリルと別れてから、アルは何度も立ち止まり、胸の鼓動を確かめた。雷鳴は恐怖ではなく、警告のように響いている。


 森が途切れ、開けた場所に出たとき――

 それはいた。


 人の姿をしている。

 だが、人ではない。


 赤い髭、分厚い腕、雷を孕んだ瞳。

 大地に突き立てられた槌が、低く唸っている。


「来ると思っていた」


 雷神トールは、アルを見下ろして言った。


 逃げ場はなかった。

 それでも、足は止まらなかった。


「……通してもらえますか」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


「通す理由がない」


 トールは槌に手をかける。


「森が荒れている。村が騒いでいる。

 そして――林檎の匂いがする」


 アルは、胸の布包みを抱え直した。


「知っているなら……奪うんですか」


 問いは、祈りに近かった。


 トールは眉をひそめる。


「奪う?」


 一歩、近づく。大地が揺れた。


「奪えば済む話なら、とっくに終わっている」


 その言葉に、アルは息を呑んだ。


「俺は守る神だ」


 雷が空を裂く。


「だが、守るために壊す」


 槌が地面から引き抜かれ、雷光が走る。


「お前が持つものは、世界を延ばす。

 延ばされた分だけ、犠牲も増える」


 アルの胸が締め付けられた。


 ――やはり、知っている。


「じゃあ……どうすればいいんですか」


 絞り出すように聞いた。


「与えなければ、世界は壊れる。

 与えれば、苦しみが続く」


 トールは答えなかった。


 代わりに、槌を肩に担ぎ、空を仰いだ。


「選ばないという選択はない」


 雷鳴が落ちる。


「それでも、生きている限り、選べ」


 トールはアルを見た。


 その視線は厳しく、だが逃がすためのものだった。


「俺はお前を殺さない」


「……どうして?」


 トールは少しだけ、視線を逸らした。


「俺の母は大地だ。

 大地は、与え続ける者を殺せない」


 槌が振り下ろされる。


 雷が地面を叩き割り、アルの前に深い裂け目が走った。

 だがそれは、攻撃ではなく、道だった。


「行け」


 その一言に、すべてが込められていた。


 アルは裂け目を越え、振り返った。


 トールはもう、雷の中に溶けている。


 ただ、空に残った雷鳴だけが、

 「覚えておけ」と言っているようだった。


 ――守るために壊す神。


 アルは歩きながら、布包みを強く抱きしめた。


 与えることが、必ずしも救いではない。


 それでも――

 与えずにいられない自分が、そこにいる。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る