第3章 鎖を引きずる獣


 森は、村よりも静かだった。


 だがその静けさは、安心とは違う。葉擦れの音が遅れ、鳥の声が途切れがちで、風が通るたびに木々が一瞬だけ身構える。ここでは、何かが常に目を開けている。


 アルは慎重に歩いた。枝を踏まないように、息を殺して。

 それでも――


 音がした。


 金属が、土を引きずる音。


 心臓が跳ねる。

 逃げようとした瞬間、前方の木々が揺れ、巨影が現れた。


 狼だった。


 いや、狼という言葉では足りない。山のような体躯、傷だらけの黒い毛並み、首から伸びる鎖。その鎖は地面に食い込み、引きずるたびに森を削っている。


 黄金色の片目が、アルを捉えた。


 逃げろ、と本能が叫んだ。

 だが足が動かなかった。


「……子ども?」


 声が、頭の中に直接響いた。


 アルは喉を鳴らし、かろうじて答えた。


「……違う。たぶん」


 狼は鼻を鳴らした。それは嘲笑でも威嚇でもなく、ただの事実確認のようだった。


「名は」


「アル」


 短く答えると、狼は一歩近づいた。鎖が鳴る。


 恐怖よりも先に、胸が痛んだ。


 ――重い。


 狼自身ではなく、その鎖が。


「フェンリルだ」


 名乗りは簡素だった。


「ここを通る理由を言え」


「……旅をしています。探し物があって」


「見つかるとは限らん」


 即答だった。


 フェンリルはアルを見下ろし、しばらく黙った。獣の沈黙は、人間のそれよりも重い。


「林檎を、持っているな」


 その言葉に、アルの指先が震えた。


 布包みを抱える腕に、力が入る。


「……わからない」


 嘘ではなかった。


 フェンリルの片目が細くなる。


「知らずに持つのが、一番残酷だ」


 風が吹いた。木々がざわめき、鎖が再び地面を削る。


「怖くないんですか」


 気づけば、アルはそう聞いていた。


「あなたは……鎖に繋がれているのに」


 フェンリルは、低く笑った。


「怖いさ。だが、それ以上に慣れた」


 鎖を引き、身体を横たえる。大地がわずかに震えた。


「恐怖は、希望より長く続く」


 アルはその言葉の意味を、なぜか理解できた。


「君は、与える側だ」


 フェンリルは続けた。


「奪われ、責められ、それでも与えてきた」


「……違う」


 反射的に否定した。


「僕は、何も……」


「それでも、土は応えた」


 村の畑が、脳裏に浮かぶ。


 フェンリルは目を閉じた。


「安心しろ。俺は奪わん」


 片目を開き、真っ直ぐにアルを見る。


「世界は、もう十分に借りを作っている」


 その言葉は、祝福ではなく、弔辞のようだった。


 アルは勇気を振り絞って聞いた。


「……僕は、何者なんですか」


 フェンリルは答えなかった。


 代わりに、鎖の先を見た。森の奥、さらに暗い場所。


「思い出したとき、お前は戻れなくなる」


 それだけ言って、立ち上がる。


「行け。雷の神が近い」


 次の瞬間、遠くで雷鳴が轟いた。胸に響く、怒りの音。


 フェンリルは森の影に溶けていく。


「アル」


 消える直前、声だけが残った。


「生きろ。

 それが、奪われなかった最後のものだ」


 森は再び静まり返った。


 アルは立ち尽くし、布包みを胸に抱いた。


 奪われなかった最後のもの。


 その意味がわかる日が来ることを、

 アルはなぜか、恐れていた。


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