第2章 荒れた村
村に近づくにつれて、風の匂いが変わった。
土が死んでいる匂いだった。雨は降ったはずなのに、湿り気がない。踏みしめる大地は固く、靴底に冷たい反発だけを返してくる。
畑は黒ずんでいた。芽吹くはずの若葉は途中で折れ、穂は実る前に腐っている。アルは畑の端に立ち、理由もなく胸の奥を押さえた。
――違う。
――こんなはずじゃない。
何が、とはわからない。ただ、間違っているという感覚だけが確かだった。
村の入口に、倒れた木製の祠があった。彫られていた女神の像は首を失い、台座には石が投げつけられた跡が残っている。
「フレイヤ様を返せ!」
怒鳴り声が飛んだ。
広場には人が集まっていた。いや、集まっているというより、溢れていた。痩せた顔、赤く充血した目、手には鍬や棒、石。誰もが同じ方向を睨みつけている。
「祈ったのに!」
「供物だって欠かさなかった!」
「なのに何だ、この有様は!」
アルは人の流れに押され、広場の中央へと引きずり込まれた。小柄な身体は簡単にぶつかり、肩が痛んだ。
「おい、ガキ!」
誰かに腕を掴まれた。
「お前、神殿の方から来たな?」
「フレイヤの使いか?」
否定しようとしたが、言葉が出なかった。
“使い”という言葉が、なぜか胸に刺さった。
「知らないです……僕は、旅の途中で……」
声は掻き消された。
「嘘をつけ!」
「神は逃げた!」
「だから奪え!」
石が飛んだ。アルの足元に転がり、土埃が舞い上がる。次の瞬間、腕を引き寄せられ、膝が地面についた。
――違う。
――奪うものじゃない。
喉の奥で、言葉にならない叫びが渦を巻いた。
そのときだった。
アルの胸元が、微かに熱を帯びた。
布包みだ。
抱え込むようにして持っていたそれが、脈打つように温かい。まるで、外の惨状に応えるかのように。
「……だめだ」
思わず呟いていた。
誰に向けた言葉かわからない。人間か、包みか、それとも自分自身か。
アルは立ち上がろうとして、もう一度突き飛ばされた。背中が地面に打ちつけられ、息が詰まる。
「殺せ!」
「神の手先だ!」
視界が揺れ、空が遠ざかる。
その瞬間、奇妙なことが起きた。
アルの周囲だけ、風が止まった。
叫び声が、少し遠のく。人々の動きが、わずかに鈍る。まるで、時間が一拍遅れて流れているようだった。
アルは必死に立ち上がり、布包みを胸に押し当てた。
「……ごめん」
誰に謝ったのかは、わからない。
だが次の瞬間、畑の方からどよめきが起こった。
「芽が……」
「見ろ、芽が出てる!」
黒ずんでいた土の一角に、淡い緑が覗いていた。枯れたはずの畑に、わずかな命が戻っている。
歓声が上がる。怒号が、戸惑いに変わる。
アルは息を呑んだ。
――やってはいけない。
理由はわからない。ただ、それだけは確信できた。
この場を離れなければならない。
アルは人混みを縫うように走った。誰も追ってこなかった。人々の視線は、芽吹いた畑に釘付けだった。
村を離れ、森の縁に辿り着いたとき、ようやく足が止まった。
息を切らしながら、アルは布包みを見下ろす。
開ける勇気は、まだなかった。
ただひとつだけ、はっきりしたことがある。
――自分は、ここに留まってはいけない。
人間の世界に、長くいてはいけない存在だ。
アルは森へと足を踏み入れた。
背後で、村の歓声と祈りが混じった声が、遠く響いていた。
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