幕間 仮面の内側



 ロキは、鏡を見ない。


 理由は単純だった。

 そこに映るのは、女神フレイヤの顔ではないからだ。


 首飾りの重みは本物だ。神気も、声も、歩き方も完璧に再現している。それでも鏡は嘘をつかない。鏡だけは、いつも別の何かを映そうとする。


 だからロキは、割れた盾を使う。歪んだ金属は、世界と同じように真実を曲げてくれる。


「……行かせたよ」


 誰にともなく呟く。


 館の外では、人間たちの怒号が風に混じって聞こえていた。畑は荒れ、獣は痩せ、祈りは届かない。豊穣の女神が“いない”世界は、こんなにも早く壊れる。


 ――ああ、知っている。


 だからこそ、ここにいる。


 ロキは外套の裾を握りしめる。指先に、かすかな甘い匂いが残っていた。血でも花でもない、時間の匂い。


 殺せなかった。


 それだけのことだ。


 世界を終わらせるためには、あの存在は邪魔だった。

 けれど同時に、世界をここまで保ってきたのも、あれだった。


 だからロキは奪った。

 名前を。

 姿を。

 記憶を。


 そして、少年にした。


「……卑怯だろう?」


 答える者はいない。


 フレイヤの姿を借りて人間を宥め、神のふりをして世界を繋ぎ止める。その間に、終わりは着実に近づいている。ラグナロクは、もう止まらない。


 それでも。


 あの少年が館を出るとき、ロキは一歩、追いかけそうになった。


 召使いとして呼び止めることもできた。

 命令として縛ることもできた。


 だが、しなかった。


 最後の嘘だけは、与えたくなかった。


「……見つかるなよ」


 それが誰に向けた言葉なのか、ロキ自身にもわからなかった。


 館の外で雷が鳴る。

 古い友が、怒っている。


 ロキは微笑み、フレイヤの顔で歩き出す。


 ――世界よ。

 ――せめて、あれが戻るまで壊れるな。


 そう願うこと自体が、すでに裏切りだと知りながら。


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