拝啓、隣の席の君へ
ちょむくま
第1話
拝啓、隣の席の君へ。
この手紙を書く理由を、うまく言葉にできずにいる。
書いたところで、君に届くことはない。
宛名も、住所も、切手さえ貼られていないのだから。
それでも、こうしてペンを持ってしまったのは⋯⋯たぶん、僕がまだあの教室から出られていないからだ。
四月の風の匂いがする。
今でも、ふいに思い出す。
君はいつも、隣の席にいた。
高校二年の春。
クラス替えの紙が廊下に貼り出された朝、僕は自分の名前を探し、番号を確認し、それから何となく、横に並んだ名前を見た。
君の名前だった。
その時点では、特別な感情はなかったと思う。
ただ、「同じクラスか」それだけだった。
教室に入ると、すでに半分ほど席は埋まっていて、窓際から二列目、前から三番目。そこが、僕の席だった。
椅子を引き、鞄を掛け、何気なく隣を見る。
そこに、君がいた。
肩までの黒髪。
少しだけ寝癖が残っていて、それを気にする様子もなく、君は静かに教科書を並べていた。
目が合った。
「あ……」
どちらともなく、短く声が出る。
それから、ほんの一瞬の沈黙。
「……よろしく」
君が、先に言った。
声は小さくて、でもはっきりしていた。
無理に明るくしようとしない、そのままの温度の声。
「うん、よろしく」
それだけの会話だった。それなのに、なぜだろう。
その日の帰り道、僕は何度も、君の声を思い出していた。
隣の席というのは、不思議な距離だ。
近すぎて、意識しないふりができる。
遠すぎて、踏み込む理由がない。
授業中、先生の話を聞きながら、視界の端に入る君の横顔。ノートを取るペンの速さが、不思議と僕と同じだった。
消しゴムが床に落ちたとき、同時に手を伸ばして指先が触れてしまったことがあった。
「ごめん」
君はそう言って、すぐに手を引っ込めた。
頬が、ほんの少しだけ赤くなっていた。
それだけで、胸の奥が、妙にざわついた。
好き、なんて言葉は、まだどこにもなかった。
ただ、隣にいる。それだけが、いつの間にか当たり前になっていた。
昼休み、君はいつも一人だった。
誰ともつるまず、でも孤立しているわけでもない。必要な会話はちゃんとするし、笑うときは、ちゃんと笑う。
ただ、自分から輪の中に入っていかない。
その距離感が、なぜか僕には心地よかった。
ある日、弁当を開いたまま、箸を忘れたことに気づいた。
「……あ」
小さく呟いた声に、君が気づく。
「どうしたの?」
「箸、忘れた」
君は一瞬だけ考えて、自分の箸を差し出した。
「半分、使う?」
その言い方が、あまりにも自然で、断る理由を見つけられなかった。
「いいの?」
「どうせ洗うし」
そう言って、君は笑った。
その笑顔を、僕は今でも、はっきり覚えている。
特別じゃない。
でも、確かに、あの瞬間から何かが変わった。
放課後、たまたま帰る方向が同じだと知ったのは、五月に入ってからだった。
昇降口で靴を履き替えていると、君が隣に立った。
「あれ、同じ方向?」
「……うん」
それだけで、二人で校門を出た。
話題は、どうでもいいことばかりだった。
宿題が多いとか、あの先生は声が大きいとか。
それでも、沈黙が苦じゃなかった。
夕方の風が、少しずつ暖かくなっていく。
その中で、僕は気づいてしまった。
――この時間が、終わってほしくない。
好きだと自覚するのに、大きな出来事はいらなかった。
ただ、隣にいることが当たり前になって、それが失われる想像をしたとき、胸が、ぎゅっと締めつけられた。
それだけだった。
でも、その想いに名前をつける勇気は、まだなかった。
君が、いつか言った。
「来年、同じ席だったらいいね」
冗談みたいな口調だった。
でも、僕は答えられなかった。
同じ席。
永遠じゃないと、どこかで分かっていたから。
そして、僕はまだ知らなかった。
君がこの街を離れることを。
知らなかったからこそ、あの春と夏は、あんなにも穏やかで残酷だったんだ。
梅雨が近づくと、教室の空気が少し重くなった。
窓を開けても風は入ってこない。
カーテンが、気だるそうに揺れている。
君は、窓側の席だった。
正確に言えば、「僕の隣の席が、窓側」だった。
雨の日、君はよく外を見ていた。
黒板よりも、ノートよりも、じっと、校庭のほうを。
「雨、好き?」
ある日、何となく聞いた。
「嫌いじゃない」
そう言って、君は窓から目を離さなかった。
「音がいいから」
それだけだった。
でも、雨音を「いい」と言う人を、僕は初めて見た気がした。
六月に入ると、授業中に小さなやり取りが増えた。
プリントが回ってくるのが遅いと、君はそっと僕の方を見て、視線で「来た?」と聞く。
僕が首を横に振ると、少しだけ眉を下げて、また前を向く。
英語の授業で、
分からない単語があると、
ノートをこちらに傾けてくる。
小さな字で、「ここ、どういう意味?」と書いてある。
答えを書くと、君は小さくうなずいて、「ありがとう」と口だけで言った。
その距離が、近すぎて、でも自然で、誰にも見られていない秘密みたいで。
胸の奥が、静かに熱くなった。
昼休み、いつの間にか、君は僕の机に来るようになった。
「今日、購買行く?」
最初はそれだけだった。
購買のパンを半分ずつ分けて、どっちが甘いだの、どっちが失敗だの、そんな話をする。
ある日、君が唐突に聞いてきた。
「将来、何になりたいとかある?」
「え……急だな」
「今、進路の紙書いてたから」
君はそう言って、くしゃっとした紙を指で押さえた。
「僕は……まだ分かんない」
正直な答えだった。
「そっか」
君はそれを否定もしなかった。
「私はね」
一瞬、言葉を探す間があって。
「まだ、秘密」
そう言って、
いたずらみたいに笑った。
秘密、という言葉に、胸が少しだけ跳ねた。
放課後、帰りが一緒になる回数も増えた。
最初は、たまたま。
次は、自然に。そのうち、どちらからともなく待つようになった。
「先、行く?」
「ううん、いい」
そんな短いやり取り。
夕焼けの色が、日によって違うことを、君と歩くようになってから知った。
「今日はオレンジ」
「昨日は赤だった」
どうでもいい会話が、どうでもよくなくなっていく。
家が近づくと、少しだけ歩く速度が落ちる。
それに気づいているのが、僕だけじゃないと分かるのが、少し嬉しかった。
七月。
期末テストが終わって、
教室に、少しだけ解放感が漂った。
「お疲れ」
君が、僕にそう言った。
「……お疲れ」
それだけなのに、
テストの点数よりも、
その一言のほうが残った。
帰り道、君が言った。
「夏休み、何する?」
「部活と……たぶん、家」
「そっか」
少し間があって。
「たまには、外出たら?」
冗談とも本気ともつかない口調。
「君は?」
「私は……」
そこで、また言葉を切った。
「まだ、秘密」
二回目の秘密。
夏が近づくにつれて、君との距離は確実に縮んでいた。
でも、手を伸ばせば届く距離なのに、伸ばさないことを二人とも選んでいた。
それが、壊したくない今だと、どこかで分かっていたから。
まだ、名前を呼ぶには、少しだけ早かったよ。
梅雨の時期、教室はいつも少しだけ湿っていた。
そんな中で、君はいつも変わらない顔で、隣に座っていた。
雨の日は、君の前髪がほんの少しだけ額に張りつく。
それを、授業の合間に直す仕草を、僕は何度も見ていた。
見ていたけれど、言わなかった。
「前髪、変だよ」
そんな一言でさえ、距離が変わってしまいそうで。
ある日の数学の授業中、先生が黒板に向かっている隙に、君が小さくため息をついた。
「分かんない?」
声を潜めて聞く。
「うん……」
君はノートをこちらに寄せてきた。
途中で止まっている数式。
説明を書いているうちに、自然と距離が縮まる。
肩と肩が、触れた。
一瞬、君の動きが止まったのが分かった。
でも、君は離れなかった。
「……なるほど」
そう言って、君はゆっくりうなずいた。
その時、僕の方が先に体を引いた。
胸の奥が、少しだけ速くなっていたから。
昼休みの時間も、いつの間にか二人で過ごすことが増えた。
君が僕の机に来て、僕が立ち上がる。
それだけのことなのに、クラスのざわめきから切り離された、小さな世界に入った気がした。
「今日、パン?」
「うん」
「じゃあ、あそこ行こ」
購買の前で並びながら、君はスマホを見ていた。
「何見てるの?」
「天気」
「雨?」
「ううん。晴れ」
君はそう言って、空を見上げた。
「放課後、寄り道できるかも」
その一言に、心臓が一つ、跳ねた。
放課後、君は本当に寄り道を提案した。
「アイス、食べに行かない?」
特別な場所じゃない。
学校から少し離れた、小さなコンビニ。
それでも、二人で行くのは初めてだった。
アイスケースの前で、どれにするか悩む君。
「決まらない?」
「うん」
「いつもじゃん」
「だって、夏だし」
その理由が、なんだか可笑しくて。
結局、君はソーダ味、僕はチョコ。
「それ、美味しい?」
「まあまあ」
「じゃあ一口ちょうだい」
一瞬、迷ってから、僕はアイスを差し出した。
君はほんの少しだけ齧って、「ありがとう」と言った。
間接キス、なんて言葉が頭をよぎって、慌てて打ち消した。
そんなことを考える自分が、急に子どもみたいに思えたから。
帰り道、夕焼けが広がっていた。
「きれい」
君が言った。
「毎日見てるのにね」
「毎日は、ちゃんと見てない」
その言葉が、妙に胸に残った。
ちゃんと見る。
ちゃんと向き合う。
それが、どれだけ難しいことか。
文化祭の準備が始まった。
クラスで決まった出し物は、地味な展示。
「楽しくなさそう」
誰かが言って、誰かが笑った。
でも、君は違った。
「こういうの、嫌いじゃないよ?」
「ほんと?」
「準備するの、好き⋯⋯」
意外だった。
「じゃあ、手伝う?」
そう聞くと、君は少し驚いた顔をしてから、うなずいた。
放課後、二人で作業する日が増えた。
誰もいない教室。
夕方の光。
並べられた画用紙。
「これ、ずれてない?」
「ほんとだ」
「直すね」
君が近づいてきて、腕が触れる。
何度も、何度も。
でも、そのたびに何も言わなかった。
言えば壊れる。
言わなければ続く。
そんな気がしていた。
ある日、作業の帰りに君がぽつりと言った。
「ねえ」
「なに?」
「……私たちって、仲いい?」
質問の意味が、すぐには分からなかった。
「いいんじゃない?」
そう答えると、
君は少しだけ笑った。
「そっか」
それ以上、何も言わなかった。
でも、その笑顔が、どこか寂しそうに見えたのは気のせいじゃなかったと思う。
夏休みが近づくにつれて時間が早く流れていく気がした。
君と過ごす時間は増えているのになぜか、失われていく感じがあった。
理由は分からない。
ただ、「このままじゃいけない」。そんな予感だけが、胸の奥に溜まっていった。
それでも、僕は名前を呼ばなかった。
君も、僕の名前を呼ばなかった。
隣の席という距離は、近すぎて、越え方が分からなかった。
夏休みが近づくと、クラス全体が浮き足立ち始めた。
机の上には、文化祭の資料と、進路希望調査票と、期末テストの返却用紙が、雑多に重なっている。
将来の話をするには、少し早すぎる年齢。
でも、考えないでいられるほど、子どもでもなかった。
その日のホームルームで、担任が言った。
「夏休み中に、一度は進路について考えておけ。秋になったら、面談が始まるからな」
ざわつく教室。
誰かが、「まだ決まってないよ」と笑って、誰かが、「適当に書けばいいじゃん」と返した。
僕は隣の席を見た。
君は、何も言わずに進路希望の紙を見つめていた。
放課後。
帰り道は、久しぶりに二人きりだった。
夕方の空は、まだ明るい。
「進路、もう書いた?」
何気なく聞いたつもりだった。
「……うん」
君は、少し間を置いて答えた。
「早くない?」
「そう?」
「まだ一年以上あるじゃん」
君は歩きながら、足元を見ていた。
「でも、決めなきゃ」
その言い方が、妙に強かった。
「そんなに急がなくてもさ」
僕は、軽く言ったつもりだった。
「今を楽しめばいいじゃん。どうせ、まだ高校生なんだし」
君が、足を止めた。
それに気づいて、僕も止まる。
「……それ、本気で言ってる?」
君は、初めて僕の方を見た。
その目が、いつもより、少し冷たかった。
「本気だよ」
「今しかないって、思わないの?」
「思うけど」
言葉を選びながら、続ける。
「でも、今しかないからこそ、そんなに先のことばっか考えなくてもいいじゃん」
沈黙。
夏の風が、二人の間を通り抜ける。
「……私とは、考え方違うんだね」
その一言が、胸に引っかかった。
次の日から、君は少し変わった。
話しかければ、ちゃんと返してくれる。
でも、それだけだった。
昼休みに、僕の机に来ることはなくなった。
帰り道も、「用事あるから」そう言って、先に行く。
隣の席なのに、距離があった。
いや、隣の席だからこそ、その距離が、はっきりと分かってしまったのか。
数日後、耐えきれずに、僕から声をかけた。
「怒ってる?」
「別に」
即答だった。
「じゃあ、なんで――」
「⋯⋯怒ってないって言ってるでしょ」
君は、ノートから目を離さなかった。
その言い方が、逆に、怒っているように聞こえた。
「じゃあ、なんで避けるの」
「避けてない」
「避けてるよ」
君のペンが止まった。
「……私、普通にしてる」
「普通じゃない」
「普通だよ」
そのやり取りが、もう噛み合っていなかった。
「ねえ」
君が言った。
「私たち、隣の席なだけだよね」
その言葉に、頭が真っ白になった。
「……そうだけど」
「それ以上でも、それ以下でもない」
淡々とした声。
それが、一番きつかった。
その日から、教室が居心地悪くなった。
触れられない。
話せない。
隣の席という距離が檻みたいに感じられた。
一週間ほど経ったころ、文化祭準備の放課後。
同じ班なのに、君は僕と目を合わせなかった。
「ここ、どうする?」
他のクラスメイトが聞く。
「私はこっち、やる⋯⋯」
君はそう言って、僕から離れた。
我慢していたものが、そこで切れた。
「なんでそんな態度なの」
教室の空気が一瞬、凍てついた。
「態度?」
「俺、何かした?」
君は、ゆっくり息を吸って、吐いた。
「したよ」
その声は、低くて、はっきりしていた。
「私が真剣に考えてることを、軽く扱った」
「そんなつもりじゃ――」
「でも、そう聞こえた」
君は、初めて感情を表に出した。
「私ね、今を楽しむのも大事だと思ってる」
「じゃあ――」
「でも!」
君は、
僕の言葉を遮った。
「その今が終わった後のことを、考えないふりはできない」
教室が、静まり返る。
「みんなが同じじゃないのは分かってる。でも、私は……」
そこで、
言葉を止めた。
「……ごめん」
小さな声だった。
「でも、分かってほしかった」
その日も、二人で帰ることはなかった。
いや、同じ方向に歩いているのに、別々だった。
君の背中が、いつもより遠く見えた。
それから、しばらく口をきかなかった。
必要最低限の会話だけ。
連絡先も知っているのに、メッセージは送らなかった。
送れなかった。
何を書いても、余計に傷つけそうで。
それに、どこかで思っていた。
――君は、僕とは違う場所を見ている。
その事実が、怖かった。
ある日、雨が降った。
梅雨の終わりの、激しい雨。
傘を持っていなかった僕は、昇降口で立ち尽くしていた。
すると、君がいた。
「……入る?」
差し出された傘。
一瞬、迷ってから、うなずいた。
二人で入るには、少し小さい傘。
肩が、触れる。
でも、何も言わなかった。
ただ、雨の音だけが、二人を包んでいた。
「……あのさ」
君が、ぽつりと言った。
「喧嘩したまま、夏休み入るの、嫌なんだけど」
「……うん、俺も」
それだけだった。
でも、それだけで、少し救われた気がした。
完全には、元に戻っていなかった。
でも、壊れたままでもなかった。
同じ傘。
その距離で僕たちは、もう一度分かり合おうとしていた。
梅雨が明けた。
天気予報が外れたみたいに、朝から強い日差しが校舎を照らしていた。蝉の声が、どこか現実味のない音で響く。
それでも、僕たちの距離は、縮まらなかった。
教室に入ると、君はすでに席に着いている。
僕が来ても、ちらりと一度見るだけで、またノートに視線を落とす。
話せばいい。
謝ればいい。
そう思うのに、タイミングはいつも、チャイムに切り取られた。
その日、体育の授業があった。
夏の体育館は、息苦しいほど暑い。
床に反射する光が、やけに眩しかった。
男女混合のペアで、バドミントン。
くじ引きで決まった相手が、君だった。
一瞬、周囲の音が遠のく。
「……よろしく」
「うん」
それだけ。
シャトルを打ち合いながら、
必要最低限の声を出す。
「そっち行った」
「ごめん、ミス」
目は合う。
でも、感情は交わらない。
君の打つ球は、いつもより強かった。
無駄な力が入っているのが、はっきり分かった。
「大丈夫?」
思わず聞いてしまった。
「大丈夫」
即答。
それ以上、何も言わせない声。
シャトルがネットに引っかかって、床に落ちた。
それを拾いに行くとき、君と同時にしゃがむ。
距離が、近い。
でも、触れない。
体育館の熱気の中で、その触れなさが、妙に冷たく感じられた。
昼休み。
前までなら、この時間君は僕の机に来る。
でも、その日も来なかった。
代わりに、君は一人で屋上へ向かった。
なぜか、それが分かった。
僕は弁当を持って、少し遅れて屋上に行った。
扉を開けると、熱い空気と、強い風。
君は、フェンスにもたれて、空を見ていた。
「……ここにいると思った」
自分でも、驚くほど自然に声が出た。
君は振り向かなかった。
「なんで?」
「分かんない」
正直な答えだった。
しばらく、沈黙。
屋上にいるのは、僕たちだけ。
「……ねえ」
君が言った。
「私さ、いつも普通にしてるつもりなんだけど」
「うん」
「普通じゃないって言われること、たまにある」
それが、どういう意味なのか、すぐには分からなかった。
「先のこと考えすぎ、とか」
君は、フェンスを握ったまま言った。
「今を楽しめって言われる」
胸が、少し痛んだ。
「悪い意味じゃないの、分かってる」
「……」
「でも、私には、それができない」
風が、君の髪を揺らす。
「それってさ」
言葉を探しながら、続ける。
「悪いことじゃないと思う」
君は、ゆっくり僕の方を見た。
「ほんと?」
「うん」
それだけだった。
でも、それ以上は言えなかった。
その日の帰り道、一緒にはならなかった。
でも、完全に避けられている感じでもなかった。
中途半端。
それがしんどかった。
翌日、突然の出来事があった。
昼休み、クラスメイトの一人が倒れた。
熱中症だった。
救急車が来て、教室が一時的に騒然とする。
先生の指示で、窓を開け、カーテンを閉め、水を配る。
その混乱の中で、君が僕の腕を掴んだ。
「手、貸して」
一瞬、
何を言われたか分からなかった。
「保健室、荷物運ぶの」
「あ、うん」
二人で、倒れた子の鞄を持って、廊下を歩く。
その時、君の手が、まだ僕の腕に触れていた。
離そうと思えば、離せた。
でも、離さなかった。
その短い距離が久しぶりに、前みたいに感じられた。
放課後。
文化祭準備は、相変わらず続いていた。
誰かの提案で、帰りに少し寄り道をすることになった。
全員で行くはずだったのに、気づけば、僕と君だけが残った。
「あれ、みんな?」
「先行ったみたい」
夕焼けが、街を赤く染めていた。
「……ねえ」
君が、少し躊躇うように言った。
「この前のこと」
「うん」
「言い過ぎた」
それだけだった。
でも、それだけで、胸の奥が緩んだ。
「俺も」
続けて言う。
「軽く言いすぎた」
君は、小さくうなずいた。
「完全には、分かり合えないかもしれないけど」
「うん」
「でも、話さないよりはいい」
その言葉に、強く同意した。
その日から、少しずつ、会話が戻った。
前みたいに、自然ではない。
でも、無理でもない。
歪だけど、続いていく日常。
それが、妙に現実的で、大人への入口みたいだった。
夏休みが、もうすぐ始まる。
君の席を見るたびに、思う。
この時間は、永遠じゃない。
分かっているのに、まだ、名前を呼べない。
喧嘩をして、分かり合おうとして、それでも、一歩が出ない。
それが、僕たちの日常だった。
終業式の日、教室はいつもより少しだけ騒がしかった。
机の中を空にして、教科書をまとめて、それぞれの夏休みを抱えて帰る準備をする。
君は、いつもより静かだった。
黒板の前で担任が話している間も、視線はずっと、窓の外に向いていた。
蝉の声が、もうはっきり聞こえていた。
「じゃあ、夏休み明けに会おうな」
担任のその一言で、終業式は終わった。
会う、という言葉が、やけに軽く聞こえた。
本当に、同じように会えるのか、分からなかったから。
帰り支度をしていると、君が立ち上がった。
「……じゃあ」
それだけ言って、鞄を持つ。
「うん」
それ以上、言葉はなかった。
教室を出る君の背中を、しばらく見ていた。
隣の席が、一気に遠くなった気がした。
夏休みに入って、最初の数日は、何も起こらなかった。
部活。家。テレビ。
スマホを手に取っては、特に用事もなく、画面を消す。
君からも、僕からも、連絡はなかった。
「普通の夏休み」
そう言い聞かせながら、なぜか落ち着かなかった。
三日目の夜、不意に通知音が鳴った。
君だった。
元気?
それだけのメッセージ。
指が止まる。
すぐ返せばいいのに、少し考えてから打った。
元気。そっちは?
しばらくして。
まあまあ
短い返事。
でも、それが来ただけで、胸の奥が少し軽くなった。
それから、少しずつ、やり取りが増えた。
天気の話。
宿題の話。
テレビの話。
特別なことは、何一つない。
でも、「今、同じ時間を生きてる」そんな感覚が、画面越しに伝わってきた。
ある日、君が送ってきた。
今日、夏祭りあるよね
行く?
一瞬、心臓が跳ねた。
行く予定なかったけど
じゃあ、一緒に行く?
その一文を、何度も読み返した。
うん。
そう送ったあと、スマホを伏せた。
理由もなく、落ち着かなかった。
夏祭りの日。
夕方の空は、まだ明るかった。
浴衣姿の人が増えて、屋台の準備が進んでいる。
君は、浴衣ではなかった。
白いTシャツに、紺のスカート。
でも、それが妙に似合っていた。
「久しぶり」
「……そんな感じしないけど」
二人で歩く。
屋台の灯り。
人の声。
甘い匂い。
非日常なのに、君といると、日常みたいだった。
「金魚すくい、やる?」
「苦手」
「私も」
じゃあ、なんで聞いたんだろうと、二人で少し笑った。
途中で、人混みに流されて、
はぐれそうになった。
「……こっち」
君が、僕の袖を掴んだ。
その感触が、やけに生々しくて、一瞬、息を忘れた。
手を離したあとも、その場所だけ、熱が残っていた。
花火が上がる。
一発目の音に、君が少しだけ肩をすくめた。
「大丈夫?」
「音が苦手なだけ」
空に広がる光を、二人で見上げる。
「きれいだね」
「うん」
でも、君の声は、どこか遠かった。
「……ねえ」
君が言った。
「夏休みって、長いよね」
「そう?」
「長い」
何かを確かめるような、言い方だった。
「でも、すぐ終わる」
僕がそう言うと君は何も答えなかった。
花火が終わって、人が動き出す。
帰り道、並んで歩きながら、君はぽつりと言った。
「私ね」
「うん」
「普通じゃないかもしれない」
また、その言葉。
「どういう意味?」
聞き返すと、君は少し笑った。
「そのうち、分かる」
それ以上、踏み込めなかった。
家に帰ってからも、君の言葉が頭から離れなかった。
普通じゃない。
先のこと。
秘密。
それらが、少しずつ、線になり始めていた。
でも、まだ、核心には触れていない。
触れてしまったら、何かが終わる気がして。
その夜、君からメッセージが来た。
今日はありがとう。
楽しかった。
また、会おうね。
「また⋯⋯」
その言葉になぜか、小さな不安が混じった。
うん、また。
そう返して、画面を閉じた。
夏休みは、まだ始まったばかりだった。
でも、僕はすでに感じていた。
この夏は、ただの夏じゃ終わらない。
隣の席に戻る前に、何かを知ってしまう。
夏休みが本格的に始まると、時間の流れ方が変わった。
学校がないだけで、一日が妙に長い。朝起きて、カーテンを開けて、同じ景色を見る。
君がいない。
それだけで、日常の輪郭が少しぼやけた。
最初の一週間は、まだよかった。
部活に行って、汗をかいて、帰ってきてシャワーを浴びる。
夜、スマホを見ると、君からのメッセージがある。
今日、暑すぎない?
部活どうだった?
短い言葉。でも、確かにそこに君がいる。
それで十分だった。
二週目に入ると、少しずつ、ズレが出てきた。
返信の間隔が、前より長くなる。
既読がついてから、返事が来るまで、妙に時間がかかる。
理由なんて、いくらでも考えられる。
忙しい。
用事がある。
疲れてる。
それでも考えてしまう。
――何をしてるんだろう。
ある日、思い切って聞いてみた。
今日、何してた?
しばらくして、返事が来る。
家。
それだけ。
ずっと?
うん。
会話が、そこで止まった。
それ以上、踏み込めなかった。
その夜、久しぶりに夢を見た。
教室。
隣の席。
君がいるはずの場所に、誰もいない。
名前を呼ぼうとして、声が出ない。
そこで、目が覚めた。
時計を見ると、午前二時。
エアコンの音が部屋に響く。
次の日、外に出る理由が欲しくて、コンビニまで歩いた。
夜の空気は、昼より少しだけ涼しい。
アイスケースの前で、ふと、君と来た日のことを思い出す。
あの時、どんな味を選んだか。
思い出せなかった。
思い出せないことが、妙に怖かった。
帰り道、スマホが鳴った。
君からだった。
起きてる?
時刻は、午前二時半。
起きてる。
ごめん、急に電話してもいい?
指が、少し震えた。
いいよ。
電話越しの声は、いつもより小さかった。
「起こした?」
「ううん」
沈黙。
何か言いかけて、やめた感じ。
「……どうした?」
少し迷ってから、聞いた。
「なんでもない」
でも、なんでもなくない声。
「眠れなくて」
「暑いから?」
「それもある」
少し笑った気配。
「でも、それだけじゃない」
また、そこで止まる。
「ねえ」
君が言った。
「もしさ」
「うん」
「何も言わずに、いなくなったらどうする?」
一瞬意味が分からなかった。
「どういうこと?」
「仮の話」
「……嫌だよ」
即答だった。
「理由もなく?」
「理由があっても」
電話の向こうで、君が息を吸う音。
「……そっか」
それだけ。
それ以上、深い話にはならなかった。
どうでもいい話をして、笑って、電話を切った。
でも、切ったあとも、胸がざわついていた。
仮の話。
その言葉が、引っかかって離れない。
数日後、君から連絡が来なかった。
一日。
二日。
既読もつかない。
三日目、我慢できずに送った。
元気?
返事は、夜になってから来た。
元気だよ。
ごめん、忙しくて⋯⋯。
それ以上、何もなかった。
夏休みの真ん中。
外は、異常な暑さだった。
ニュースでは、連日、猛暑日だと言っている。
でも、僕の中では、別の温度が下がっていく感じがあった。
冷める、というより、遠ざかる。
ある日、偶然、君を見かけた。
駅前。
誰かと一緒だった。
大人の女性。
母親、だと思う。
楽しそうに話している君は、いつもより少し、大人びて見えた。
声をかけようとして、やめた。
なぜか、その場に割り込んではいけない気がした。
その夜、君からメッセージが来た。
今日、見かけたよね。
見られていたことに、少し驚いた。
うん。
声かけてくれてもよかったのに。
邪魔かなって思って。
そんなことないよ。
でも、そのあとが続かなかった。
夏休み後半。
宿題の話をして、文化祭の話をして、当たり障りのないやり取りが続く。
でも、どこか決定的な話題を、二人とも避けていた。
あの夜の電話。
あの質問。
触れたら、壊れそうだった。
八月の終わり。
夕方、空が少しだけ秋の色になる。
その時、君から長いメッセージが届いた。
画面いっぱいの文字。
読む前から、嫌な予感がした。
夏休み明け、ちゃんと話したいことがある
教室で。
隣の席で。
逃げないで聞いてほしい。
心臓が、はっきり音を立てた。
分かった。
それだけ返した。
スマホを置いて、天井を見る。
隣の席。
逃げないで。
その言葉が、何度も頭の中で反響する。
夏休みが、終わろうとしていた。
そして、隣の席に戻るとき、僕はきっと、君の「秘密」を知る。
それが、もう避けられないことだと、はっきり分かっていた。
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