第5話 昨日の客

今日は、コーヒーの日だ。


豆を挽く音が、昨日より少しだけ静かに感じる。この、静けさが、自分を少し落ち着かせる。


昼を少し過ぎたころ、ドアベルが鳴った。

入ってきたのは、昨日の客だった。


窓際には向かわず、まっすぐカウンターへ来る。

その動きで、今日は話す気があると分かる。


「昨日も来てくれた方ですよね。

今日も来ていただいて、ありがとうございます」


そう言うと、彼は少しだけ表情を緩めた。


「いえいえ。それと……佐久間です。

佐久間憲明」


名前を名乗る必要のない場面で、

彼はそれを口にした。


「佐久間さん」


そう呼ぶと、彼は一瞬だけ目を伏せる。


「ブレンドで」


「砂糖とミルクは?」


「今日は、このままで」


豆を挽き、湯を落とす。

コーヒーの香りが、昨日より一段と深く、店中に広がる。


カップを置いても、佐久間さんはすぐに口をつけなかった。

湯気の向こうを見つめている。


「……昨日のあと、少し考えたんです」


「はい」


「やっぱり、うまくやってきたつもりだったなって」


言葉はそれ以上、続かなかった。

説明を求めている顔じゃない。


僕は、カウンターを拭きながら言う。


「それ、たぶん“今の話”じゃないですね」


佐久間さんの指が止まる。

否定もしない。

ただ、視線がカップの底へ落ちていく。


——その瞬間、音が遠のいた。




濡れた靴底。

夕方の校舎。

窓から差し込む、色の薄い光。


机の上には、願書が一枚。

名前だけが書かれている。


佐久間憲明。


本当は、別の場所へ行くはずだった。

違う道を選ぶ勇気も、理由も、あった。


けれど、

「今じゃない」

「もう少し落ち着いてから」


そう言って、紙を折り、引き出しにしまった。


期限が過ぎたことに気づいたとき、

悔しさはなかった。


ただ、

選ばなかった人生が、

静かに残った。


失敗よりも、

そのほうが長く、胸に居座る。



「……すみません」


声で、現実に戻る。


佐久間さんは、カップを両手で包んでいた。


「急に、昔のことを思い出して」


「よくあります」


それ以上、踏み込まない。


一口飲んでから、彼は言った。


「今日は、この一杯で大丈夫です」


「はい」


会計を済ませ、立ち上がる。


ドアの前で、少しだけ振り返る。


「また、来てもいいですか」


「もちろん」


ベルが鳴り、静けさが戻る。


今日は、コーヒーの日だ。

名前と、選ばなかった過去だけが、

カウンターに残っていた

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