第3話 苦い、それ

 今日は抹茶の日だ。


 朝から雨が降っていた。強くはないが、川の流れがはっきり分かる程度には、地面を濡らしている。看板の文字が、少しだけ滲んで見えた。


 昼過ぎ、引き戸が鳴った。


 昨日の男だった。


 今度は窓際に向かわなかった。

 一瞬だけ店内を見渡し、それからカウンターの端に腰を下ろした。


 その選択に、理由があるかどうかは分からない。

 ただ、ここに座った、という事実だけがある。


 俺は何も言わず、抹茶の準備をする。

 この店では、抹茶の日にコーヒーは出さない。例外もない。


 茶筅を動かし、湯を含ませる。

 音は小さいが、店の中ではよく響く。


 カウンターに盆を置いた、その瞬間だった。


 視界の奥で、何かが重なった。


 はっきりした映像じゃない。

 色も、音も、輪郭も曖昧だ。


 ただ、

 濡れた床。

 踏み出せなかった一歩。

 誰かの名前を呼ばなかった記憶。


 それだけが、ひとかたまりになって浮かんでいる。


 俺は視線を落とし、抹茶の表面を見る。

 泡は均一で、崩れていない。ほっと安心した。


どうぞ、ごゆっくり。


 男は、何も気づいていないようだった。

 抹茶を一口飲み、少しだけ眉をひそめる。


「……苦いですね」


「抹茶ですから」


 それ以上の会話は続かない。


 男は、しばらくカウンターの木目を眺めていた。

 話すつもりはなさそうだったし、俺も聞く気はなかった。


 抹茶の日は、そういう日だ。

 過去が見えても、触れない。


 しばらくして、男はカップを置いた。


「昨日より、落ち着きました」


 理由は言わない。

 俺も聞かない。


ただ________。


「そうですか。」


とだけ、伝えた。

 

会計を済ませ、男は席を立った。

 引き戸に手をかける前、ほんの一瞬だけ、こちらを見る。


 何かを期待している目ではなかった。

 確かめているだけの目だった。


 男は何も言わずに出ていった。


 俺は空になったカップを片づけながら思う。

 抹茶の日に、カウンターに座る客は少ない。


 そして、そういう客は、たいてい——

 次は、コーヒーの日に来る。

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