第2話 窓際

 引き戸が鳴ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 今日は抹茶の日だ。

 店の中には、コーヒーとは違う匂いがある。青くて、少し粉っぽい香り。湯を注ぐ前から、空気が静かになる。


 入ってきたのは、昨日と同じ男だった。


 顔を見た瞬間に分かる。

 人は、来る気がないときと、来てしまったときとで、歩き方が違う。彼は後者だった。迷った末に来た、というより、気づいたら足が向いていた、そんな感じだ。


 男は、昨日と同じ窓際の席に座った。

 カウンターには来ない。


 それでいい。


 抹茶を点てる。

 この店では、抹茶の日にコーヒーは出さない。理由はない。ただ、そう決めているだけだ。和菓子を一つ添えて、盆に乗せる。


 今日は、練り切りの菓子で、名前が「夏草」といいます。どうぞごゆっくりしてください。


今は、晩夏で、合わないかもしれないが、夏草のような、どこか涼しい気持ちでいて欲しいと思った。


 盆を置くと、男は小さく会釈をした。

 それ以上、何も言わない。


 窓の外では、川が流れている。昨日より水嵩が少し増えているように見えた。雨は降っていないはずだが、上流で降ったのかもしれない。そういうことは、よくある。


 男は、抹茶を一口飲んでから、しばらく和菓子を眺めていた。

 食べない。

 触れもしない。


 俺はカウンターの内側で、道具を拭きながら、その様子を見ていた。話しかける気はない。この店では、抹茶の日に、こちらから声をかけることはほとんどない。


 しばらくして、男が口を開いた。


「……いい店ですね」


 それだけだった。


「ありがとうございます」


 それ以上の言葉は続かない。

 会話としては、あまりにも短い。


 男は、結局和菓子を半分だけ食べ、抹茶を飲み干した。苦かったのか、甘かったのか、表情からは分からない。


 会計を済ませると、男は少しだけ立ち止まった。

 何か言いかけて、やめた、そんな間があった。


 そして、何も言わずに出ていった。


 引き戸が閉まる音が、店の中に残る。

 抹茶の香りと一緒に。


 俺は、空いた窓際の席を片づけながら思う。

 今日も、いつも通りだ。


 抹茶の日は、そういう日だ。

 何も始まらないし、何も終わらない。


 それでも、ああいう客は、たいてい翌日に戻ってくる。


 理由は分からない。

 ただ、この店は、そういうふうにできている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る