第三十四話 やよい、初めて“産の危機”に立ち会う

🏯『大阪城台所所・やよい記』


第三十四話 やよい、初めて“産の危機”に立ち会う——命の境界線


——これは、わたくし曲直瀬やよいが、

“命が生まれる瞬間の重さ”を初めて知った日の記である。


---


◆ 御膳所に届いた急報

夕刻。

御膳所で千代と仕込みをしていたやよいのもとへ、

玄朔の弟子が駆け込んできた。


「やよい殿!

 玄朔様が呼んでおられる!

 “産が危ない、やよいを至急に”と!」


御膳所がざわめいた。


お市が言った。


「やよい……

 産の危機や……

 あんたの“匂いの才”が必要なんや」


千代も真剣な顔で言った。


「行きなさい。

 料理は私がやる。

 あなたは“命の方”へ行くのよ」


やよいは深く頷いた。


(わたし……

 行かなあかん……

 命が……

 待ってる……)


---


◆ 産の部屋の空気

やよいが駆けつけると、

部屋には緊張が張りつめていた。


産婦は若い女。

額には汗、

呼吸は荒く、

顔は苦痛に歪んでいる。


玄朔が低い声で言った。


「やよい……

 この産、

 “難産”や」


やよいは息を呑んだ。


(空気が……

 重い……

 命の匂いと……

 死の匂いが混ざってる……)


玄朔は続けた。


「子が……

 なかなか下りてこん。

 母の力も弱ってきておる」


やよいの胸が震えた。


---


◆ やよい、匂いを読む

玄朔が言った。


「やよい。

 まずは“匂い”を読め」


やよいは産婦のそばに膝をつき、

そっと匂いを嗅いだ。


(……血の匂い……

 でも……

 まだ危険な量やない……)


(……汗の匂い……

 体が必死に戦ってる……)


(……でも……

 何かが違う……

 体が……

 冷えてる……?)


やよいは玄朔を見た。


「玄朔様……

 この方……

 “冷え”が強いです……

 産む力が……

 冷えで奪われてます……」


玄朔は目を見開いた。


「やよい……

 それを匂いで……?」


やよいは頷いた。


「……はい。

 火を……

 少しだけ……

 近づけたいです」


玄朔は即座に言った。


「やれ。

 おまえの判断で」


---


◆ 火の力

やよいは火床から炭を取り、

産婦の足元に遠火で温めるように置いた。


(強すぎたらあかん……

 弱すぎてもあかん……

 “命の火”を……

 少しだけ渡す……)


産婦の呼吸が、

ほんの少しだけ落ち着いた。


玄朔が呟いた。


「……やよい……

 おまえ……

 “産の火”が読めるんか……」


---


◆ やよい、産婦の手を握る

産婦が苦しげに叫んだ。


「……もう……

 無理……!」


やよいはその手を強く握った。


「大丈夫です……

 わたしがいます……

 一緒に……

 息を合わせましょう……」


吸って——

吐いて——

吸って——

吐いて——


やよいは産婦と呼吸を合わせた。


(呼吸が……

 少しずつ……

 整ってきた……)


玄朔が言った。


「やよい。

 今や。

 “押し”を導け」


---


◆ 命の境界線

産婦が叫び、

体が大きく波打った。


やよいは手を握り、

声をかけ続けた。


「大丈夫……

 大丈夫……

 来てます……

 命が……

 来てます……!」


次の瞬間——


部屋の空気が変わった。


玄朔が手を伸ばし、

やよいの手が震え、

産婦の体が最後の力を振り絞り——


「……おぎゃあ……!」


小さな、小さな声が

部屋を満たした。


やよいの目から涙がこぼれた。


(生まれた……

 ほんまに……

 生まれた……)


玄朔が赤子を抱き上げ、

やよいに言った。


「やよい。

 これは……

 “命の火”や」


やよいは震える声で言った。


「……あったかい……」


---


◆ 母の涙

産婦は弱い声で言った。


「……ありがとう……

 ありがとう……

 助けてくれて……」


やよいはその手を握り返した。


「……おめでとうございます……

 あなたが……

 頑張ったんです……」


玄朔が静かに言った。


「やよい。

 おまえは……

 産科の才がある」


やよいの胸が震えた。


(わたし……

 この道を……

 歩くんやろか……)


---


◆ 老いたやよいの一行

——あの日、

わたくしは初めて“産の危機”に立ち会った。


命が生まれる瞬間は、

火が灯る瞬間と同じであった。


温かく、

眩しく、

そして——

尊い。


その境界線に立ったとき、

わたくしは初めて

“産科の道”を意識したのである。

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