第十九話 やよい、初めての薬湯——病の者に“温かい汁”を届ける
第十九話 やよい、初めての薬湯——病の者に“温かい汁”を届ける
——これは、わたくし曲直瀬やよいが、
“料理”と“医”が同じ場所に立つ瞬間を、
自分の手で作った日の記である。
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◆ 病の匂いを胸に抱えて、御膳所へ戻る
玄朔の往診から戻ったやよいは、
御膳所の戸を開けた瞬間、
胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
(この匂い……
御膳所の匂いと、
病の匂いが混ざってる)
火の匂い。
出汁の匂い。
そして——
廊下から流れ込む、弱った体の匂い。
お市が、
やよいの顔を見て駆け寄った。
「やよい、どうやった?」
「……病の人が、
いっぱい倒れてました」
お市の表情が曇る。
「やっぱり……」
宗右衛門が、
火床の前から振り返った。
「玄朔様は、なんと言うてた?」
やよいは、
玄朔の言葉を思い出しながら答えた。
「“温かい汁がいる”って。
薄くてもええから、
生姜を少し入れろって」
宗右衛門は、
深く頷いた。
「……やっぱりそうか」
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◆ 御膳所の“薬湯”づくりが始まる
宗右衛門は、
大釜の蓋を開けた。
湯気が立ちのぼる。
「ええか、みんな。
今日から作るんは、
“飯”やない」
御膳所の空気が、
すっと張り詰めた。
「“薬湯”や」
お澄が、
静かに頷いた。
「病の者に飲ませるための、
温かい汁……」
お市は、
生姜の束を手に取った。
「これ、全部使いますか?」
「全部はあかん。
でも、惜しんでもあかん」
宗右衛門は、
生姜を手に取り、
薄く薄く刻み始めた。
トン。
トン。
トン。
その音は、
いつもの仕込みの音とは違った。
もっと静かで、
もっと慎重で、
もっと祈るような音だった。
やよいは、
その音を聞きながら思った。
(これは……
料理やない。
命をつなぐための音や)
---
◆ やよい、初めて“薬湯”を任される
「やよい」
宗右衛門が呼んだ。
「はい」
「おまえ、これを持て」
渡されたのは、
小さな木の椀。
「……わたしが?」
「せや。
おまえの手は軽い。
病の者に飲ませるには、
軽い手の方がええ」
やよいは、
胸が熱くなった。
(わたし……
任されたんや)
宗右衛門は、
やよいの目を見て言った。
「ええか。
薬湯は“熱すぎてもあかん”。
“冷めてもあかん”。
“ちょうどええ”がいる」
「……はい」
「おまえの舌で、
“ちょうどええ”を見つけろ」
やよいは、
椀を両手で包み込んだ。
(わたしの舌で……
誰かの命を助ける……?)
胸の奥が震えた。
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◆ 病の部屋へ向かう
薬湯ができあがると、
やよいは椀を抱えて廊下へ出た。
廊下の向こうから、
咳の音が聞こえる。
「ごほっ……ごほっ……!」
(怖い……
でも、行かなあかん)
やよいは、
震える足で歩き出した。
病の部屋の前に立つと、
玄朔が待っていた。
「来たか、やよい」
「はい……」
玄朔は、
やよいの手元の椀を見て頷いた。
「ええ匂いや。
入れ」
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◆ 初めて“病の者”に汁を飲ませる
部屋の中は、
熱気と汗の匂いで満ちていた。
布団に倒れた兵が、
弱々しく息をしている。
玄朔が言った。
「やよい。
この者に飲ませてみい」
やよいは、
兵の枕元に膝をついた。
兵の顔は赤く、
唇は乾いていた。
(……怖い)
手が震える。
しかし——
やよいは、
お市の言葉を思い出した。
“泣いてもええ。
怖がってもええ。
震えてもええ。
せやけど——
それでも立つんや”
やよいは、
震える手で椀を傾けた。
「……どうぞ」
兵の唇に、
温かい薬湯が触れた。
兵は、
かすかに目を開けた。
そして——
ゆっくりと、
一口飲んだ。
(飲んだ……!)
やよいの胸が、
熱くなった。
兵は、
弱い声で言った。
「……あったかい……」
その一言は、
やよいの胸に深く刺さった。
(あったかい……
それだけで……
こんなに嬉しいんや)
玄朔が、
やよいの肩に手を置いた。
「ようやったな」
やよいは、
涙がこぼれそうになった。
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◆ 御膳所に戻ると、火が優しく見えた
薬湯を配り終え、
やよいが御膳所に戻ると、
火床の火が静かに揺れていた。
お市が、
やよいの顔を見て微笑んだ。
「どうやった?」
「……飲んでくれました」
お市は、
やよいの頭を撫でた。
「それで十分や」
宗右衛門も言った。
「やよい。
おまえの一椀が、
誰かの命を“もう一刻”延ばしたんや」
やよいは、
胸の奥が熱くなった。
(わたし……
できたんや)
---
◆ 老いたやよいの一行
——あの日、
わたくしは初めて“薬湯”を作り、
初めて“病の者”に飲ませた。
その一椀は、
豪華でもなく、
旨味も少なく、
ただ温かいだけの汁であった。
しかしその温かさが、
人の命を“もう一刻”
こちら側に引きとめる力を持つのだと、
わたくしはその日、
はっきりと知ったのである。
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