第十八話 玄朔の往診——城内に広がる“病”

第十八話 玄朔の往診——城内に広がる“病”


——これは、わたくし曲直瀬やよいが、

戦が終わったあとに訪れる“静かな死”を、

初めて目の当たりにした日の記である。


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◆ 川の運びの準備が進む中で

天満の商人・堺屋宗兵衛が動き、

御膳所は“川の運び”の段取りを整えていた。


夜の御膳所は、

火が少なく、

静かで、

どこか張り詰めていた。


「やよい、布持ってきて」

「はい」


お市は、

昨日泣いたとは思えないほど、

いつも通りの動きに戻っていた。


(お市さん……

 泣いても、ちゃんと立ってる)


その背中は、

昨日よりも強く見えた。


しかし——

御膳所の外から、

妙な咳の音が聞こえてきた。


「ごほっ……ごほっ……!」


やよいは、

思わず顔を上げた。


(誰か……咳してる?)


---


◆ 咳の音が増えていく

翌朝。

御膳所に向かう廊下で、

やよいはまた咳の音を聞いた。


「ごほっ……ごほっ……!」


昨日よりも、

明らかに増えている。


(なんか……嫌な感じがする)


御膳所に入ると、

お梅が顔をしかめていた。


「なんか、城の中……

 咳してる人、多ない?」


「うちも思ったわ」

「冬の風邪か?」

「いや……なんか違う気ぃする」


お澄が、

眉をひそめた。


「冬の陣の間、

 寒い中で寝てた兵も多いし……

 疲れが出てきたんかもしれん」


宗右衛門は、

火床の前で腕を組んだ。


「……嫌な予感がするな」


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◆ 玄朔、御膳所に現れる

昼前。

御膳所の戸が勢いよく開いた。


「宗右衛門!」


玄朔だった。


いつもより息が荒く、

顔色も悪い。


「玄朔様……!」


やよいが駆け寄ると、

玄朔は短く言った。


「病が出た」


御膳所の空気が、

一瞬で凍りついた。


「病……?」


「どんな病ですか?」


お澄が尋ねると、

玄朔は低い声で答えた。


「咳と熱。

 体がだるく、

 食べ物が喉を通らん」


やよいは、

胸がひゅっと縮んだ。


(……さっきの咳)


「兵だけやない。

 女中も、下働きも、

 城のあちこちで倒れ始めてる」


お市が息を呑んだ。


「冬の陣の疲れが……?」


「それもある。

 せやけど——」


玄朔は、

御膳所の釜を見た。


「食べ物が足らんのが、

 一番の原因や」


やよいの胸が痛んだ。


(食べ物が……

 足らんから……

 病になるんや)


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◆ 玄朔の往診に同行する

「宗右衛門。

 御膳所から一人、

 わしの往診に付いてきてほしい」


「誰を連れていきます?」


玄朔は、

迷いなく言った。


「やよいを」


「えっ……!」


御膳所がざわついた。


「やよいを……?」

「まだ十歳やで……?」

「危ないんちゃいますか……?」


玄朔は、

やよいの目を見た。


「やよいの鼻は、

 病の匂いを嗅ぎ分けられる」


やよいは、

息を呑んだ。


(病の……匂い……?)


宗右衛門は、

しばらく考えたあと言った。


「……やよい。

 行け」


「宗右衛門様……」


「おまえの鼻は、

 御膳所の“目”や。

 病の匂いも、

 食べ物の匂いも、

 同じや」


やよいは、

ぎゅっと拳を握った。


「行きます」


---


◆ 病の部屋の“匂い”

玄朔に連れられ、

やよいは城の奥へ向かった。


廊下のあちこちで、

咳の音が響く。


「ごほっ……ごほっ……!」


(こんなに……

 たくさん……)


玄朔は、

一つの部屋の前で立ち止まった。


「ここや」


戸を開けると——

熱気と、

汗と、

血の匂いが混ざった空気が流れ出た。


やよいは、

思わず鼻を押さえた。


(……これが……

 病の匂い……)


部屋の中には、

布団に倒れた兵が何人もいた。


顔は赤く、

息は荒く、

汗で髪が張り付いている。


玄朔は、

一人ひとりの脈を取り、

舌を見せ、

胸に耳を当てた。


「やよい」


「はい」


「この匂い、覚えとけ」


やよいは、

震える鼻で空気を吸った。


汗の匂い。

熱の匂い。

弱った体の匂い。


そして——

ほんの少しだけ、

“腐りかけた匂い”。


(……これ……

 食べ物が足らんときの匂いや)


玄朔は、

やよいの顔を見て頷いた。


「わかったようやな」


「はい……

 これは……

 “弱ってる匂い”です」


玄朔は、

やよいの頭を軽く撫でた。


「その通りや。

 病は、

 弱ったところに入り込む」


---


◆ 病と食の関係

玄朔は、

やよいに薬草を渡した。


「これを煎じる。

 せやけど——」


玄朔は、

御膳所の方角を見た。


「薬だけでは治らん。

 “食”がいる」


やよいは、

胸が熱くなった。


(御膳所の……

 仕事や)


「やよい。

 御膳所に伝えろ」


玄朔は、

真剣な目で言った。


「病の者には、

 “温かい汁”が必要や。

 薄くてもええ。

 生姜を少し入れろ」


やよいは、

力いっぱい頷いた。


「はい!」


---


◆ 老いたやよいの一行

——あの日、

わたくしは初めて“病の匂い”を嗅いだ。


それは、

血の匂いよりも、

鉄砲の匂いよりも、

ずっと静かで、

ずっと恐ろしい匂いであった。


そしてその日から、

わたくしは“医”と“食”が

一本の道でつながっていることを

はっきりと理解したのである。

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