第十七話 お市の涙——御膳所の女たちの覚悟
第十七話 お市の涙——御膳所の女たちの覚悟
——これは、わたくし曲直瀬やよいが、
“強い女”というものが、
決して泣かない女ではなく、
“泣きながらも立つ女”なのだと知った日の記である。
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◆ 川の運びが決まった夜
天満の商人・堺屋宗兵衛が動くことになり、
御膳所は“川の運び”の準備に入った。
夜の御膳所は、
いつもより火が少なく、
静かで、
どこか張り詰めていた。
「お市、こっち手伝え」
「はい」
お市は、
いつも通り淡々と動いていた。
器を洗い、
布を干し、
明日の仕込みの準備をする。
しかし——
やよいは気づいていた。
(お市さん……
なんか、いつもと違う)
動きは同じなのに、
背中が少しだけ重い。
声はいつも通りなのに、
どこか震えている。
やよいは、
お市の横にそっと立った。
「お市さん……
大丈夫ですか?」
お市は、
一瞬だけ動きを止めた。
しかしすぐに、
いつもの笑顔を作った。
「大丈夫や。
なんでそんなこと聞くん?」
「なんとなく……
お市さんの背中が、
いつもより……寂しそうで」
お市の手が、
ぴたりと止まった。
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◆ お市の“涙”
お市は、
器を置き、
やよいの方を向いた。
その目は、
いつもの強さを失っていた。
「……やよい。
あんた、よう見とるなぁ」
声が震えていた。
「お市さん……?」
お市は、
唇を噛んだ。
「怖いんや」
「怖い……?」
「川の運びが失敗したら、
堺屋さんも、
御膳所も、
城も……
全部終わりや」
やよいは、
胸がぎゅっと痛くなった。
(お市さん……
ずっと強いと思ってたのに……)
お市は、
手で顔を覆った。
「わたしな……
強いふりしてるだけなんや」
「……」
「ほんまは、
怖くて怖くて……
震えてるんや」
その瞬間——
お市の目から、
ぽろりと涙が落ちた。
やよいは、
息を呑んだ。
(お市さんが……
泣いてる……)
御膳所で、
お市が涙を見せるのは初めてだった。
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◆ “強い女”の正体
お市は、
涙を拭わずに言った。
「やよい。
あんた、覚えとき」
「はい」
「“強い女”ってな、
泣かへん女のことやない」
「……」
「泣きながらでも、
立つ女のことや」
やよいの胸に、
その言葉が深く刺さった。
「泣いてもええ。
怖がってもええ。
震えてもええ。
せやけど——」
お市は、
涙を拭って立ち上がった。
「それでも、
明日の朝、
火の前に立つんや」
やよいは、
胸が熱くなった。
(お市さん……
こんなに強いんや)
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◆ やよいの“決意”
お市は、
やよいの肩に手を置いた。
「やよい。
あんたも怖いやろ?」
「……はい」
「せやろな」
お市は、
やよいの手を握った。
「せやけどな、
怖いからこそ、
人は強くなるんや」
やよいは、
涙をこらえながら頷いた。
「わたし……
明日も、
御膳所に立ちます」
お市は、
やさしく微笑んだ。
「それでええ。
それが、
御膳所の女の覚悟や」
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◆ 夜の御膳所に、二人の影
火床の火は、
ほとんど消えていた。
しかし、
灰の奥に小さな赤い芯が残っていた。
やよいとお市は、
その火を見つめながら並んで座った。
二人の影が、
土間に長く伸びていた。
(怖いけど……
わたしは、
ここにおる)
(泣いてもええ。
でも、立つんや)
やよいの胸の奥で、
小さな火がまた灯った。
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◆ 老いたやよいの一行
——あの夜、
お市さんが見せた涙は、
わたくしの人生で最も美しい涙であった。
強さとは、
泣かないことではなく、
泣きながらも立つこと。
その教えは、
医の道に入ってからも、
わたくしの胸の奥で
ずっと燃え続けている。
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