第十六話 御膳所の密談——食べ物を“どう運ぶか”
第十六話 御膳所の密談——食べ物を“どう運ぶか”
——これは、わたくし曲直瀬やよいが、
「食べ物を運ぶ」という行為が、
戦の中では命を賭ける仕事になるのだと知った日の記である。
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◆ 天満市場から戻ったやよい
天満の市場で宗兵衛と話を終え、
やよいは夕暮れの道を急いで城へ戻った。
空は薄紫に染まり、
焼けた家々の影が長く伸びている。
(宗兵衛さん……
“やり方は任せろ”って言うてたけど……
ほんまに大丈夫なんやろか)
胸の奥がざわざわする。
城門に近づくと、
門番がやよいを見て目を丸くした。
「おまえ……
外へ出とったんか?」
「はい。
御膳所の用で」
門番は、
やよいの顔をじっと見つめたあと、
小さく頷いた。
「……気ぃつけや。
今の城は、
“誰がどこへ行ったか”で疑われる」
やよいは、
胸がひゅっと縮んだ。
(城の中も外も……
どっちも怖いんや)
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◆ 御膳所に戻ると、空気が変わっていた
御膳所の戸を開けた瞬間、
やよいは空気の違いに気づいた。
火は落ち、
皆が火床の前に集まっている。
宗右衛門、お澄、お市、与兵衛。
そして、下働きの若い衆まで。
全員の顔が、
いつもより険しい。
「やよい、戻ったか」
宗右衛門が言った。
「はい。
宗兵衛さんが……
“動く”って言うてくれました」
御膳所の空気が、
一瞬だけ明るくなった。
「ほんまか!」
「助かった……!」
「さすが堺屋や!」
しかし——
宗右衛門だけは、
まだ表情を緩めなかった。
「……問題は、
“どう運ぶか”や」
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◆ 御膳所の“密談”が始まる
宗右衛門は、
火床の前に皆を座らせた。
「ええか。
天満の商人が動いてくれるとしても、
そのまま城に運んだら、
徳川に見つかって終わりや」
「せやな……」
「市場の端に、徳川の足軽おったで」
「見張っとるんやろな」
やよいは、
天満で見た光景を思い出した。
(あの足軽……
市場をじっと見張ってた)
宗右衛門は、
土間に指で線を描いた。
「食べ物を運ぶ道は三つある」
北の道。
西の道。
南の道。
「全部、徳川に塞がれとる」
「じゃあ……
どうするんですか?」
やよいが尋ねると、
宗右衛門は、
にやりと笑った。
「“道”が塞がれとるなら、
“道じゃないところ”を使うんや」
「道じゃない……?」
お市が眉をひそめる。
宗右衛門は、
土間にもう一本線を描いた。
「川や」
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◆ “川”という道
「川……?」
やよいは、
思わず声を漏らした。
宗右衛門は頷いた。
「大坂は水の都や。
川が道になる」
お澄が、
はっとしたように言った。
「……天満川」
「せや」
宗右衛門は、
火床の灰を払った。
「天満川は、
徳川の見張りが薄い。
夜なら、
小舟で荷を運べる」
「でも……
川は危ないんちゃいますか?」
やよいが言うと、
与兵衛が笑った。
「危ないのは、
陸も川も同じや」
宗右衛門は、
やよいの方を向いた。
「やよい。
おまえ、天満で何を見た?」
やよいは、
少し考えてから答えた。
「……商人さんらが、
“声は大きいのに、
目が笑ってへん”と思いました」
御膳所の空気が、
一瞬静まった。
お澄が、
やよいの頭を軽く撫でた。
「よう見とるなぁ……
やよい」
宗右衛門は、
深く頷いた。
「せや。
商人は“声”で商売する。
せやけど、
“目”は嘘つかん」
「……はい」
「天満の商人は、
もう限界や。
徳川に怯えとる」
宗右衛門は、
火床の前に膝をついた。
「せやからこそ、
“川”や」
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◆ “川の運び”の段取り
宗右衛門は、
土間に図を描き始めた。
「まず、天満の倉庫から荷を出す」
「はい」
「次に、天満川の小舟に積む」
「はい」
「夜のうちに、
城の裏手の“水門”まで運ぶ」
「水門……?」
やよいは、
聞き慣れない言葉に首を傾げた。
お市が説明した。
「大坂城には、
裏手に小さな水門があるんや。
普段は使われへんけど、
昔は荷物の出入りに使ってたらしい」
「そこなら、
徳川の目が届かん」
宗右衛門は、
やよいの目を見た。
「やよい。
おまえは“匂い”で荷を確かめろ」
「匂い……?」
「天満の倉庫で嗅いだ匂い、
覚えとるか?」
やよいは、
胸に手を当てた。
(干し魚の匂い……
昆布の匂い……
少し焦げた匂い……)
「はい。
覚えてます」
「その匂いがしたら、
“本物の荷”や。
匂いが違ったら、
“偽物”か“罠”や」
やよいは、
ぎゅっと拳を握った。
「……わかりました」
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◆ 御膳所の“覚悟”
宗右衛門は、
皆を見渡した。
「ええか。
これは戦や」
「戦……?」
「刀を持たん戦や。
食べ物を運ぶ戦や」
お澄は、
静かに頷いた。
「食べ物がなかったら、
兵は立てへん。
殿下も倒れる」
お市も言った。
「御膳所は、
城の“胃袋”や。
胃袋が止まったら、
城は死ぬ」
与兵衛は、
拳を握りしめた。
「わしらが、
城を生かすんや」
やよいは、
胸の奥が熱くなった。
(わたしも……
その一人なんや)
宗右衛門は、
最後に言った。
「今夜から動く。
全員、覚悟せえ」
御膳所の空気が、
静かに、しかし確実に変わった。
それは、
“料理人の空気”ではなく——
“戦に向かう者の空気”だった。
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◆ 老いたやよいの一行
——あの夜、
御膳所は料理人ではなく、
“戦う者”になった。
刀も槍も持たず、
ただ食べ物を運ぶために。
しかしその戦こそ、
わたくしにとって最も恐ろしく、
最も誇らしい戦であった。
あの夜の火の匂いを、
わたくしは今も忘れない。
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