第十五話 天満市場の異変——商人たちの“沈黙”

第十五話 天満市場の異変——商人たちの“沈黙”


——これは、わたくし曲直瀬やよいが、

「食べ物を売る人々」でさえ、

戦の影に怯えて声を潜めるのだと知った日の記である。


---


◆ 天満市場は“いつも通り”に見えた

やよいが天満に着いたとき、

市場はいつも通りの賑わいを見せていた。


「いらっしゃい!」

「今日は大根が安いで!」

「魚、見ていき!」


声は大きく、

人は多く、

匂いは豊か。


(ここだけ……

 戦の影がないみたいや)


しかし——

その賑わいは、

どこか“薄い膜”のように感じられた。


笑っているようで、

笑っていない。


売っているようで、

売っていない。


声は大きいのに、

目が笑っていない。


(なんか……

 変や)


やよいの鼻が、

市場の空気の“違和感”を捉えた。


---


◆ 堺屋宗兵衛の顔が、いつもと違う

「お嬢ちゃん、迷子か?」


声をかけてきたのは、

大きな桶を担いだ男——堺屋宗兵衛。


「宗兵衛さん!」


やよいが駆け寄ると、

宗兵衛は目を丸くした。


「おお、やよいちゃんやないか!

 なんでこんなとこに?」


「お願いがあって来ました」


宗兵衛は、

やよいの顔を見て、

すぐに真剣な表情になった。


「……話、聞こうか」


宗兵衛は、

市場の喧騒から少し離れた、

裏手の倉庫へやよいを連れていった。


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◆ 裏手の倉庫は“静かすぎた”

倉庫の中は、

市場の賑わいとは対照的に静かだった。


木箱が積まれ、

干し魚の匂いが漂う。


宗兵衛は、

やよいの前にしゃがみ込んだ。


「で、お願いってなんや?」


やよいは、

胸の前で包みを握りしめた。


「大坂城に……

 食べ物を運んでほしいんです」


宗兵衛の顔が、

一瞬で固まった。


「……やっぱり、そう来たか」


「お願いします。

 城の食べ物が、

 もうほとんど残ってへんのです」


宗兵衛は、

深く息を吐いた。


「やよいちゃん。

 わしら商人はな、

 “売れるとこに売る”のが仕事や」


「はい」


「せやけど今は……

 “売ったら殺される”時代なんや」


やよいは、

息を呑んだ。


「殺される……?」


宗兵衛は、

倉庫の扉を少しだけ開け、

外を指さした。


「見てみ」


やよいが覗くと——

市場の端に、

徳川の足軽が二人立っていた。


槍を持ち、

市場を見張っている。


(……徳川の兵が……

 市場に……?)


宗兵衛は、

低い声で言った。


「徳川はな、

 “天満の商人が大坂城に食べ物を運んでる”

 って疑っとる」


「疑って……」


「せや。

 疑っとるだけで、

 まだ証拠はない。

 せやけど——」


宗兵衛は、

やよいの目を見た。


「証拠がなくても、

 “怪しい”と思われたら終わりや」


やよいの胸が、

ぎゅっと締めつけられた。


(商人さんらも……

 戦の中で生きてるんや)


---


◆ 商人たちの“沈黙”

宗兵衛は、

倉庫の奥にある木箱を指さした。


「ここに、

 大根も、干し魚も、米もある」


「……!」


やよいの目が輝いた。


「でもな」


宗兵衛は、

その木箱に手を置いた。


「これを城に運んだら、

 わしらは“徳川の敵”になる」


「敵……」


「商人はな、

 敵も味方も作ったらあかん。

 金の道が閉じる」


やよいは、

胸が痛くなった。


(御膳所も、

 商人さんも、

 みんな……

 生きるために必死なんや)


宗兵衛は、

やよいの肩に手を置いた。


「やよいちゃん。

 わしはおまえが好きや。

 御膳所の人らも好きや。

 せやけど——」


宗兵衛は、

苦しそうに言った。


「“好き”だけでは、

 商売はできへん」


やよいは、

唇を噛んだ。


(どうしたら……

 どうしたら運んでもらえるんやろ)


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◆ やよいの“匂いの記憶”が動く

そのとき——

やよいの鼻が、

倉庫の奥の匂いを捉えた。


(……この匂い)


干し魚の匂い。

昆布の匂い。

そして——

ほんの少しだけ、

“焦げた匂い”。


(この匂い……

 御膳所の匂いや)


やよいは、

宗兵衛の袖を掴んだ。


「宗兵衛さん。

 この匂い……

 御膳所の匂いと同じです」


宗兵衛は、

目を丸くした。


「御膳所の……?」


「はい。

 御膳所の干し魚と、

 同じ匂いがします」


宗兵衛は、

しばらく黙っていたが——

やがて、

ゆっくりと立ち上がった。


「……やよいちゃん。

 おまえの鼻は、

 ほんまによう利くな」


「え?」


「この干し魚、

 御膳所に卸してたやつの“残り”や」


「……!」


「つまり——」


宗兵衛は、

倉庫の奥の木箱を叩いた。


「ここにあるもんは全部、

 “御膳所の味”を知っとる」


やよいの胸が、

熱くなった。


(御膳所の味……

 御膳所の匂い……

 ここにあるんや)


宗兵衛は、

深く息を吐いた。


「……わかった。

 やよいちゃん。

 わしが動く」


「ほんまに……?」


「ただし——」


宗兵衛は、

やよいの目を見た。


「“やり方”は、

 わしに任せろ」


やよいは、

力いっぱい頷いた。


「はい!」


---


◆ 老いたやよいの一行

——あの日、

天満市場の裏で嗅いだ“焦げた匂い”は、

わたくしの鼻に一生残る匂いとなった。


それは、

御膳所の匂いであり、

生きるための匂いであり、

戦の中で人が人を助ける匂いであった。


そしてその日、

わたくしは初めて、

“商人の戦”というものを知ったのである。

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