第十話 春の和議と、束の間の静けさ

第十話 春の和議と、束の間の静けさ

——御膳所編・第一章の締めくくり——



◆ 雪が溶ける音が聞こえる朝


冬の陣が終わった、と城中に噂が流れたのは、

雪が溶ける音が聞こえるような、静かな朝だった。


どん……

……どん。


遠くで鳴っていた鉄砲の音が、

その日は一度も響かなかった。


「……今日は、音がせえへんな」


与兵衛が、火床の前で炭をいじりながら呟いた。


「ええことなんちゃいます?」


お梅が、少しだけ希望を込めて言う。


「ええことかどうかは、まだわからん」


宗右衛門は、火の揺らぎをじっと見つめたまま、

眉間に深い皺を刻んだ。


やよいは、

その皺の意味をまだ知らなかった。


(戦、終わったんかな……

 終わってほしい……

 でも、なんか胸がざわざわする)


御膳所の空気は、

静かすぎて、逆に落ち着かなかった。


---


◆ 和議の知らせ


昼前。

御膳所に、走ってくる足音があった。


「和議や! 和議が結ばれたで!」


御広敷の若い衆が叫びながら飛び込んでくる。


「ほんまかいな!」

「やっと終わったんか!」

「生きて春迎えられるんやな!」


小台所が一気に明るくなる。


お梅は泣き笑いし、

お市は胸に手を当てて深く息を吐いた。


やよいも、

胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。


(よかった……

 もう、あんな血の匂い、

 聞かんでええんや……)


しかし——


宗右衛門だけは、

火床の前で腕を組んだまま、

喜びの色を見せなかった。


「……終わったんは、戦やない」


「え?」


やよいが尋ねると、

宗右衛門は、火を見つめたまま言った。


「“冬の陣”が終わっただけや。

 戦そのものは、まだ終わっとらん」


その声は、

火の音よりも低く、重かった。


---


◆ 和議の膳を作れ


和議の翌日。

御膳所に新しい命が下った。


「殿下より、和議の膳を整えよ」


お澄が紙を読み上げる。


「和議の……膳?」


「せや。

 戦が終わったことを祝う膳や」


お市が、

少しだけ眉をひそめた。


「祝う……?」


「祝うんや。

 表向きはな」


宗右衛門は、

大台所の中央に立ち、皆を見渡した。


「ええか。

 今日の膳は、

 “豊臣はまだ健在や”と示す膳や」


「……戦が終わったのに?」


「終わったからこそや」


宗右衛門は、

釜の蓋を開けた。


「徳川に“弱っとらんで”と見せる膳や。

 これが、和議の膳や」


やよいは、

胸の奥にざわりとしたものを感じた。


(戦が終わっても、

 戦は終わってへん……)


---


◆ 食材が足りない


「和議の膳や言うても、

 食材が足らんのやけどな」


与兵衛が、

空っぽの桶を指さした。


「鯛もない、鴨もない、

 野菜も細いもんばっかりや」


「どうするんですか?」


やよいが尋ねると、

宗右衛門は、

にやりと笑った。


「どうにかするんが、

 台所所の腕や」


宗右衛門は、

残っている食材をひとつひとつ見ていく。


干し大根。

細い人参。

少しの昆布。

わずかな干し椎茸。


「……これで、どうやって“豊臣健在”を見せるんですか」


お市が、

珍しく弱音を吐いた。


宗右衛門は、

椎茸を手に取り、

その香りを嗅いだ。


「香りや」


「香り……?」


「見た目は貧相でも、

 香りが立てば、

 “ええもん食うとる”ように見える」


宗右衛門は、

昆布と椎茸を水に浸した。


「昆布と椎茸の出汁は、

 戦の後でも裏切らん。

 これがあれば、

 “豊臣の味”は作れる」


やよいは、

その言葉を胸に刻んだ。


(“豊臣の味”……

 それを守るんが、

 御膳所の仕事なんや)


---


◆ 和議の膳、完成


夕刻。

御膳所は、

久しぶりに静かな緊張に包まれていた。


「盛り付け、もっと丁寧に」

「器、欠けてへんか見て」

「香り、逃がすなよ」


お市の声が飛ぶ。


やよいは、

小さな椀に、

昆布と椎茸の出汁を注いだ。


(……いい匂い)


冬の間、

血と煙の匂いばかり嗅いできた鼻に、

その香りは優しく沁みた。


「やよい、ええ仕事したな」


宗右衛門が、

やよいの肩を軽く叩いた。


「これが、和議の膳や」


膳は、

豪華ではなかった。


けれど、

香りは豊かで、

器は美しく、

味は深かった。


(これが……

 戦の後の膳なんや)


---


◆ 和議の膳を運ぶお市


「お市、頼んだで」


「はい」


お市は、

膳を両手で抱え、

背筋を伸ばして歩き出した。


その姿は、

戦の間ずっと張り詰めていた彼女とは違い、

どこか柔らかかった。


(お市さん……

 やっと、少し楽になったんや)


やよいは、

その背中を見送りながら思った。


---


◆ 和議の膳の裏側


膳を運び終えたお市が戻ってきたとき、

御膳所の空気は、

少しだけざわついていた。


「どうやった?」


お澄が尋ねる。


お市は、

少しだけ間を置いてから答えた。


「……殿下は、

 “よい香りだ”と仰いました」


「よかったやないの!」


お梅が喜ぶ。


しかし、お市は続けた。


「けれど……

 徳川の使者は、

 “香りはよいが、量が少ない”と」


御膳所の空気が、

すっと冷えた。


「量が少ない……?」


宗右衛門が、

低く呟いた。


「そら、少ないわ。

 食材がないんやから」


「でも、

 “少ない”と言われたことが、

 問題なんです」


お市は、

膳を置いた手をぎゅっと握った。


「“豊臣は弱っている”と、

 そう見られたかもしれません」


やよいの胸が、

きゅっと痛んだ。


(戦は……

 まだ終わってへん)


---


◆ 春の桜と、母の影


その夜。

やよいは、

御膳所の裏庭に出た。


雪が溶け、

桜の蕾がふくらんでいる。


(春が来る……

 でも、心はまだ冬のままや)


ふと、

背後から声がした。


「やよい」


振り返ると、

母が立っていた。


「……お母さん!」


やよいは、

思わず駆け寄った。


母は、

やよいの頬に手を当てた。


「よう頑張ったなぁ……

 やよい」


その手は、

温かかった。


やよいは、

胸の奥がほどけていくのを感じた。


(ああ……

 わたし、

 ずっと……

 怖かったんや)


母の胸に顔を埋め、

やよいは静かに泣いた。


---


◆ 春の和議は、束の間の静けさ


翌朝。

御膳所は、

いつも通り火を起こした。


けれど、

その火の向こうにある未来は、

まだ誰にも見えていなかった。


「やよい」


宗右衛門が言った。


「和議は、

 “春の静けさ”みたいなもんや。

 すぐにまた、

 風が吹く」


やよいは、

火の揺らぎを見つめた。


(春が来ても、

 戦は終わってへん。

 でも——

 わたしは、

 この台所で生きていく)


胸の奥で、

小さな火がまた灯った。


---


◆ 老いたやよいの一行


——あの春の和議は、

わたくしにとって“終わり”ではなく、

“始まり”であった。


戦の匂いが消えたわけではない。

ただ、少しだけ、

息ができるようになっただけである。


けれどその束の間の静けさが、

わたくしの心を、

次の“夏の陣”へと備えさせてくれたのだ。

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