第九話 「生きるための一椀」

第九話 「生きるための一椀」


——これは、わたくし曲直瀬やよいが、

「おいしい」でもなく、「豪華」でもなく、

ただひたすらに

“生きるためだけの料理”

というものを、はじめて自分の手で作った日の記である。


---


◆ 冬の陣、終わりが近いときの空気


慶長十九年の冬も、

終わりに近づいていた。


だが、大坂城の中には、

「終わり」が近いという安堵も、

「勝ち」が近いという高揚もなかった。


代わりにあったのは——

どこまでも、じわじわと染み込んでくるような疲れだった。


鉄砲の音は、

前ほど激しくはない。


どん…

……どん。


間が、あいている。

だが、それがかえって不気味だった。


「音の回数、減ってきましたね」


やよいがぽつりと言うと、

大釜をかき回していた与兵衛が鼻を鳴らした。


「そりゃあな。

 撃つ弾が、もうあんまり残っとらんのや」


「弾が……ない……」


「弾も、兵糧もや」


与兵衛は、釜の中を見下ろした。


「ここも、な」


釜の中には、

以前よりもさらに薄い汁が揺れていた。


具は、細かく刻んだ大根と、

申し訳程度に浮かぶ菜の花。


肉の姿は、どこにもない。


「肉は?」


やよいの問いに、

与兵衛は、わざとらしく肩をすくめた。


「どっこにもおらん。

 走って逃げてしもうたわ」


「肉が逃げるんですか」


半分ふざけたような会話。

でも、その向こうにある現実は、

笑えたものではなかった。


宗右衛門は、

火床の前に膝をつき、

炭をじっと見つめていた。


「火も、よう燃えんな」


「炭も少ないんですか」


「せや。

 薪も、炭も、味噌も、塩も。

 足らんもんだらけや」


宗右衛門は、

火箸で炭を寄せながら言った。


「戦の終わりに近づいたら、

 いつもこうなる。

 外で“勝ち負け”決めとるあいだ、

 ここでは“あとどれだけ持つか”を数えるんや」


(“あとどれだけ持つか”……)


やよいは、釜の中を見つめた。


(この汁、あと何日、作れるんやろ)


---


◆ 御膳所にも届く「数」の話


昼前、

小台所に紙が一枚運ばれてきた。


片桐且元の印が押された、

兵糧の帳付である。


「米、これだけ……?」


お澄が紙を目で追いながら、

低く唸った。


「大根も干物も、

 数える方が早いぐらい減ってるやないの」


お市も横から覗き込む。


「おかずは、ほとんど残ってませんね」


「せや。

 “飯の量を減らせ”言うてきたのが、

 誰かはっきりしましたな」


お澄は、紙の片隅に記された文字を指で叩いた。


——兵糧の配分について、

 当座、これを限りとする。

 片桐且元。


「……恨んだところで、米は増えんけどな」


お澄は、ふっと息を吐いた。


「やよい」


「はい」


「今、城の中に、

 兵と家臣と女中と下働き、

 合わせてどれくらいおると思う?」


「……たくさんです」


「そらそうや。

 でも、“たくさん”では足らんのや」


お澄は、紙の上に指で円を描いた。


「ここに千人おるとするやろ」


くるり。


「この千人が、一日に一膳ずつ食べる。

 二日目、三日目、四日目……

 十日続いたら、米はどれくらい減ると思う?」


やよいは、すぐには答えられなかった。


「よう計算せんでええ。

 ただ、こう考えたらええ」


お澄は、

隅に書かれた数字を、トン、と叩いた。


「“この数字は、誰かの腹の数や”てな」


やよいは、紙に目を凝らした。


米の残量。

味噌の樽の数。

干し魚の束の数。


どれも、

ただの「物」ではなく、

“人の腹の分”

だと思うと、急に重く見えた。


---


◆ 「おいしい」を諦めない舌


その日の兵の汁は、

本当に「ぎりぎり」だった。


大根と菜と、

少しだけ麩。


塩は、ほんのひとつまみ。

味噌も、いつもの半分。


「薄い……」


やよいは、味見をして、

思わず顔をしかめた。


「薄いな」


宗右衛門も、正直に認めた。


「けど、これ以上濃くしたら、

 今度は持たん。

 塩も味噌も、底が見えかけとる」


「どうしたらええんですか……」


「どうもしようがない。

 ……と、諦めるのは簡単や」


宗右衛門の目が、

ちらりとやよいを見た。


「せやけど、

 “どうもしようがない”中で、

 なにか一つでもマシにするのが、

 台所所の“意地”や」


「意地……」


やよいは、釜の中を見た。


(薄い。

 でも、だからって、

 “まずいままでええ”とは思いたない)


「やよい。

 おまえなら、何を足したいと思う?」


宗右衛門に問われ、

やよいはしばらく考えた。


(肉はない。魚もない。

 味噌も塩も、増やしたら持たへん。

 でも——)


ふと、

鼻先をかすめた匂いがあった。


(……この香り)


火床の隅。

干して吊るされた、

細い何か。


「これ……」


やよいは駆け寄った。


「宗右衛門様、

 この細長いの、何ですか?」


「ん? ああ、それか」


宗右衛門は、一番端の束を指さした。


「干し生姜や。

 冬の前に、玄朔様が“残しとけ”言うたやつや」


「生姜……

 第七話(※やよいの記憶の中で)で増やしたやつ……」


やよいは、

その束を両手でそっと撫でた。


干された生姜は、

皺だらけになりながらも、

かすかに香りを残している。


(塩を増やせんかったら、

 温もりを増やしたらええ)


「宗右衛門様。

 これ、少しだけ使えませんか」


宗右衛門は、

目を細めた。


「少しだけ、やないやろ」


「え……?」


「おまえの目ぇは、

 “思い切り使いたい目”しとる」


言い当てられて、

やよいは苦笑した。


「……バレてますか」


「バレバレや」


宗右衛門は、

干し生姜の束を手に取り、

慎重に、そのうちの数本を取り分けた。


「これ以上はあかん。

 でも、こいつくらいなら、

 明日の分も、ぎりぎり残る」


「ありがとうございます」


やよいは、生姜をまな板に置いた。


刃を入れると、

中から、まだ鮮やかな香りが立ちのぼる。


(生姜は、

 体を温める。

 玄朔様がそう言うてはった)


細く、

薄く、

できる限り均一に。


トン。

トン。

トン。


包丁が走る音が、

少しだけ楽しく感じられた。


(おいしさも、

 温もりも、

 諦めたくない)


やよいは、刻んだ生姜を掴み、

ぐつぐつと煮立つ釜の中に落とした。


じわり、と。

空気が変わった気がした。


大根と菜だけでは物足りなかった香りに、

一本、芯が通る。


「……あったかい匂いがします」


お梅が、

思わず顔を近づけた。


「ほんまや。

 体まで温もりそうな匂いやで」


宗右衛門も、

味見をして頷いた。


「薄いんは変わらん。

 せやけど、

 “飲みたい”と思わせる味になったな」


やよいの胸に、

小さな誇りが灯った。


(これが——

 今のわたしにできる、

 “生きるための一椀”や)


---


◆ 玄朔との、長い一日のはじまり


その日、

玄朔はいつもより早く城に入った。


「朝から、負傷者が増える」


それだけ言って、

御膳所の隅に荷を下ろす。


荷の中には、

薬草と、包帯と、

小さな木箱がいくつも並んでいた。


「玄朔様。

 今日の汁、生姜を多めにしてみました」


やよいが言うと、

玄朔は湯気の向こうに手を伸ばし、

指先で少し掬って舐めた。


「ほう」


短く声が漏れる。


「塩も味噌も控えめやのに、

 冷たさが残らん」


玄朔は、

やよいを見た。


「おまえが考えたんか」


「はい。

 ……といっても、

 生姜を残せと言うてくれはったのは、

 玄朔様ですけど」


「わしは“残せ”と言うただけや。

 “どう使え”とは決めてへん」


玄朔は、小さな笑いを浮かべた。


「ええ舌や。

 やっぱり——曲直瀬の血、

 ちゃんと流れとるな」


やよいの胸に、

暖かいものが広がる。


(曲直瀬の血……)


「玄朔様」


やよいは、思わず呼び止めた。


「なんや」


「医者は……

 どうして、

 “死んでいく人”を前にしても、

 前を向いておれるんですか」


玄朔は、一瞬だけ目を伏せた。


「前を向いてるように見えるか」


「はい。

 この間、

 死んだ人の手を触ったときも……

 玄朔様だけ、

 まっすぐ線を引いてはった」


玄朔は、

土間を一度見下ろし、

そして言った。


「わしらかて、

 怖いもんは怖い。

 悲しいもんは悲しい。

 それでも前を向くんはな——」


玄朔は、

釜を指さした。


「ここにまだ、

 “生きてる舌”がようけあるからや」


「……生きてる、舌」


「死んだ人は、

 もう何も言わん。

 けど、

 生きてる人は“痛い”“寒い”“腹減った”と、

 まだ言うてくる」


玄朔は、

その声を聞くように目を閉じた。


「その声があるあいだは、

 それに応え続ける。

 それが医者の仕事や。

 料理人も、同じやろ?」


やよいは、

静かに頷いた。


(医者も料理人も、

 “生きている人の声”に、

 手を伸ばす仕事なんや)


---


◆ 「一椀」が届くところ


兵の昼の時間。

御膳所には、

いつも以上に荒い足音が響いた。


「今日の汁、温いか!」

「生姜の匂いや!」

「ありがてえ……!」


兵たちの声が、

廊下のあちこちから聞こえてくる。


やよいは、

御膳所の入口の陰からそっと覗いた。


粗末な木の椀に、

薄い汁。


大根は小さく、

菜の花の色も心許ない。


それでも、

兵たちは口々に、


「はぁ……あったけぇ」

「これ飲んだら、もう一刻は持つな」

「生姜や、生姜や。

 これがありがたいんや」


笑い声さえ漏れていた。


(よかった……)


やよいの胸が、

じんと熱くなる。


(“おいしい”かどうかやなく、

 “もう一刻持つ”って言うてくれた)


その言葉は、

どんな誉め言葉よりも、

重く響いた。


「やよい」


ふと、背後からお市の声がした。


「見とるだけやなくて、

 ちゃんと胸に刻み」


「……はい」


「今日の一椀は、

 あんたの“はじめての仕事”や」


「はじめて……?」


「“誰かの命を、一刻分だけ延ばした汁”。

 それを作ったのは、

 あんたや」


お市の横顔は、

いつもより柔らかかった。


「うちも、

 いつかそういう一皿を、

 出してみたいもんやわ」


やよいは、

お市を見上げた。


(お市さんも——

 ほんまは、

 同じこと思てるのかもしれん)


---


◆ 夜の御膳所で、火を見つめる二人


その夜。

御膳所の火は早めに落とされた。


炭も、

節約しなければならない。


皆が布団に戻ったあと、

やよいは火床の前に残っていた。


火は、

ほとんど消えている。

けれど、灰の奥で、

まだ小さな赤が点々と息をしていた。


(火って、

 なかなか完全には消えへんのや)


灰をそっと崩すと、

下から、

ぽう、と赤い芯が顔をのぞかせる。


(この芯があったら、

 また火が起こせる)


「よう見とるな」


背中に声が届いた。


振り返ると、

玄朔が、柱にもたれて立っていた。


「玄朔様……」


「わしも、

 今日はまだ帰らん」


玄朔は、

火床の前にすとんと座った。


二人で、黙って火を見る。


しばらくして、

玄朔がぽつりと口を開いた。


「さっき、兵らの声聞こえたわ」


「汁の、ですか」


「“もう一刻持つ”て言うてた。

 ええ言葉や」


玄朔の横顔は、

火の残り火に照らされて、

いつもより柔らかく見えた。


「やよい」


「はい」


「わしらの仕事はな——」


玄朔は、

灰の中の赤い芯を指さした。


「この小さい火を、

 もう少しだけ、

 消えんように守ることや」


やよいは、

息を呑んだ。


「兵の命も、

 病の者の命も、

 もう消えかけとるときがある。

 そのときに、

 “もう一刻だけ”延ばしてやる。

 それができたら、

 十分仕事した言うてええ」


「……“治す”んやなくて、ですか」


「もちろん、治せたらいちばんええ。

 せやけど、

 治せへんときもようけある。

 戦ん中は、特にな」


玄朔は、

灰の上にそっと指を滑らせた。


「そういうときに、

 “せめて今夜だけ楽に眠れるように”とか、

 “せめて、ここで死なせたらんように”とか、

 そういう火を守る。

 それも、医の役目や」


やよいの喉が、

熱くなった。


(“全部助ける”んやなくて、

 “今を守る”んや……)


「やよい」


玄朔が、

真正面からやよいを見た。


「おまえが今日作った汁は、

 きっと何人かの命を、

 “もう一刻分”だけ延ばした」


「……そんな、大それたこと」


「大それたことやない。

 大それたことや」


玄朔は、

少し声を強めた。


「命はな、

 “大”とか“少”とかで測るもんやない。

 一刻は一刻や。

 それ以上でも以下でもあらへん」


「……はい」


「その一刻を、

 “たいしたことない”と思う医者や料理人は、

 はじめからこの道に立たん方がええ」


やよいは、

ぎゅっと膝を抱きしめた。


(わたしは——

 その一刻を、“たいしたことない”なんて、

 絶対思いたくない)


「玄朔様」


「なんや」


「わたし、いつか——」


言いかけて、

言葉に詰まった。


(本気で言うたら、

 もう後戻りできへん)


でも——

今この火の前で言わなければ、

きっと、ずっと言えないと思った。


「……いつか、玄朔様みたいに、

 “線の手前”で踏ん張れる人になりたいです」


玄朔は、

ほんの少しだけ目を見開いた。


そのあと、

ゆっくりと、

大きく頷いた。


「なら、まずは——」


玄朔は、

御膳所の方を顎で示した。


「明日も、汁を作れ。

 それが今できる、“線の守り方”や」


やよいは、

胸の奥が熱くなるのを感じながら、

深く頭を下げた。


「はい」


---


◆ 老いたやよいの一行


——あの冬の日の一椀を、

わたくしは決して忘れない。


豪奢な膳でもなく、

旨味に満ちた汁でもなく、

ただ、薄くて、温かくて、

生姜の香りがした一椀。


けれどそれは、

たしかに何人かの命を、

「もう一刻だけ」

こちら側に引きとめたのだと、

今でも信じている。


医者になってから、

わたくしはしばしば、

あの冬の鍋を思い出す。


——治すことだけが、

 人を助けることではない。


——“もう少しだけ”、

 その人が生きていてもよい時間を、

 そっと差し出すこと。


それもまた、

医の道であり、

台所の道であるのだと——

御膳所の火は、

今も胸の内で静かに燃え続けている。

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