第十一話 片桐且元、城を去る日
第十一話 片桐且元、城を去る日
——御膳所編・第二章の幕開け——
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◆ 和議の翌朝、御膳所に走るざわめき
和議の膳を出した翌朝。
御膳所は、いつもより早くざわついていた。
「なんや、朝から騒がしいな」
「誰か来たんか?」
「いや……誰か“出ていく”らしいで」
やよいは、桶を抱えたまま耳を澄ませた。
(出ていく……?
誰が?)
そのとき、
御膳所の入口に、御広敷の男が駆け込んできた。
「片桐且元様が……
城を出はる!」
「えっ……!」
お梅が声を上げる。
お市は、手にしていた器を落としそうになった。
お澄は、
深く息を吸い込んでから言った。
「……とうとう、来たか」
やよいは、
その言葉の意味がわからなかった。
(片桐様って……
あの、味見所で殿下の膳を見てはった……
あの人が、なんで……?)
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◆ 片桐且元という男
片桐且元。
豊臣家の重臣であり、
大坂城の政治を支える柱のひとつ。
冬の陣の和議をまとめたのも、
この人だと聞いていた。
「なんで……
なんで片桐様が出ていくんですか?」
やよいが尋ねると、
宗右衛門は、
火床の前で腕を組んだまま答えた。
「和議のせいや」
「和議……?」
「徳川と豊臣の間に立って、
和議をまとめたんは片桐様や。
せやけど——」
宗右衛門は、
火を見つめたまま続けた。
「城の中には、
“和議は裏切りや”言うて怒っとる者もおる」
「裏切り……?」
「戦を続けたい者もおるんや。
淀殿の周りには、特にな」
やよいは、
胸の奥がざわざわした。
(戦を……続けたい……?
なんで……?)
宗右衛門は、
やよいの顔を見て言った。
「戦はな、
勝ちたい者だけが続けるんやない。
“負けを認めたくない者”も続けるんや」
その言葉は、
やよいにはまだ重すぎた。
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◆ 御膳所に届く“最後の命”
昼前。
御膳所に、片桐且元からの最後の命が届いた。
「片桐様より、
“城を去る前に、
御膳所の者に礼を述べたい”とのこと」
お澄が紙を読み上げる。
「礼……?」
「せや。
冬の陣の間、
兵の腹を支えたことへの礼や」
宗右衛門は、
火床の前で静かに頷いた。
「行くで。
やよいも来い」
「わ、わたしも……?」
「おまえも、
兵の命を一刻延ばした一人や」
やよいは、
胸が熱くなった。
(わたし……
片桐様に会うんや……)
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◆ 片桐且元、御膳所に現れる
片桐且元は、
御膳所の入口に静かに立っていた。
冬の陣のときより、
少し痩せたように見えた。
しかしその目は、
相変わらず鋭く、
そして深かった。
「宗右衛門。
おまえたちの働き、
しかと見ておった」
宗右衛門は、
深く頭を下げた。
「もったいないお言葉でございます」
片桐は、
御膳所の中をゆっくりと見渡した。
大台所。
小台所。
味見所。
そして、
やよいの立つ場所。
「ここは……
戦の間、
城の心臓であった」
やよいは、
胸がどきりとした。
(心臓……
御膳所が……?)
片桐は、
やよいの前に立った。
「おまえが、
“生姜の汁”を作った娘か」
「……はい」
やよいは、
緊張で声が震えた。
片桐は、
やよいの目をじっと見つめた。
「兵たちが言うておった。
“あの汁のおかげで、
もう一刻、立てた”とな」
やよいの胸が、
熱くなった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは、わしの方や」
片桐は、
やよいの肩に手を置いた。
「おまえのような者が、
城におることが、
豊臣の力であった」
その言葉は、
やよいの胸に深く刺さった。
(わたし……
豊臣の力……?)
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◆ 片桐且元、退城
片桐は、
御膳所の者たちに深く頭を下げた。
「わしは、
今日限りで城を去る」
御膳所の空気が、
すっと冷えた。
「片桐様……
ほんまに……?」
お梅が、
涙をこらえながら言う。
片桐は、
静かに頷いた。
「和議を結んだことで、
わしは“徳川の手先”と見られた。
城におっては、
殿下のためにならん」
宗右衛門が、
拳を握りしめた。
「そんな……
片桐様が一番、
豊臣のことを思うてはったのに……!」
片桐は、
宗右衛門の言葉を遮った。
「思いはどうあれ、
城は“見えるもの”で動く。
わしがここにおれば、
豊臣は割れる」
やよいは、
胸が痛くなった。
(戦が終わっても、
人は傷つくんや……)
片桐は、
最後にやよいを見た。
「娘よ。
おまえの舌は、
人の命を救う舌や」
「……わたし……?」
「いつか、
その舌で、
もっと多くの命を救え」
やよいは、
涙がこぼれそうになった。
「……はい」
片桐は、
静かに背を向けた。
その背中は、
戦場に向かう武士のように、
まっすぐだった。
御膳所の者たちは、
誰も声を出せなかった。
ただ、
その背中が見えなくなるまで、
深く頭を下げ続けた。
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◆ 片桐が去った後の御膳所
片桐が去ったあと、
御膳所はしばらく静まり返っていた。
「……なんで、
ええ人ほど、
城を出ていかなあかんのやろ」
お梅が、
ぽつりと言った。
お市は、
器を拭きながら答えた。
「“正しい人”は、
戦の中では邪魔になることがあるんや」
「邪魔……?」
「正しいことを言う人は、
誰かの“間違い”を照らしてしまう。
それが、
戦の中では一番怖いんや」
やよいは、
胸がぎゅっと締めつけられた。
(正しい人が、
城を出ていく……
それが、戦なんや)
宗右衛門は、
火床の前で静かに言った。
「片桐様が出ていったことで、
城の“柱”が一本折れた」
「柱……?」
「せや。
豊臣の柱が、一本折れたんや」
やよいは、
火の揺らぎを見つめた。
(柱が折れたら……
城はどうなるんやろ)
胸の奥に、
小さな不安が芽生えた。
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◆ 老いたやよいの一行
——片桐且元様が城を去ったあの日、
わたくしは初めて、
“戦は終わっても、
争いは終わらない”
ということを知った。
あの背中は、
今もわたくしの記憶の中で、
静かに歩き続けている。
そしてあの日から、
大坂城の空気は、
少しずつ、
確実に変わっていったのである。
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