第八話 「死の匂いと、生きる火」
第八話 「死の匂いと、生きる火」
——これは、わたくし曲直瀬やよいが、
“死”というものが、
人の形をしたまま、静かにそこに横たわるのだと知った日の記である。
◆ 雪が止んだ朝は、静かすぎる
冬の陣が始まってから、
大坂城の空はずっと灰色だった。
けれど、その朝は違った。
雪が止み、
空が、妙に澄んでいた。
「……嫌な空やな」
宗右衛門が、火床に炭をくべながら呟いた。
「なんでですか?」
やよいが尋ねると、
宗右衛門は、火を見つめたまま答えた。
「静かすぎる。
戦の前の空や」
どん……
どん……
遠くで、鉄砲の音が小さく鳴った。
(今日も、誰か倒れるんやろか)
やよいの胸に、
冷たいものが落ちていく。
◆ 御膳所に届いた“ひとつの知らせ”
昼前。
御膳所に、走ってくる足音があった。
「負傷者、増えた!
御膳所の湯、もっと使わせてくれ!」
御広敷の男が叫ぶ。
「またか……」
お澄が、眉をひそめる。
「やよい、湯の準備や!」
宗右衛門の声に、
やよいは桶を抱えて走った。
(また……怪我人が来るんや)
けれど、その日は違った。
廊下の向こうから運ばれてきた板の上には——
動かない兵がひとり、横たわっていた。
「……え?」
やよいの足が止まった。
布の下から覗く手は、
いつもの負傷者のように震えていない。
胸も、上下していない。
「この人……」
声が震えた。
「息、してへんの?」
御広敷の男は、
短く、しかし重く頷いた。
「……してへん」
やよいの胸が、
ぎゅうっと縮んだ。
(死んでる……
ほんまに……死んでるんや)
◆ 初めて触れる“冷たさ”
「やよい、こっち来い」
玄朔の声だった。
いつの間にか、
玄朔が御膳所に来ていた。
「この人、どうしたんですか……」
やよいの声は、震えていた。
玄朔は、静かに答えた。
「胸を撃たれた。
手当の間もなく、息が絶えた」
やよいは、布の端を握りしめた。
「……助けられへんかったんですか」
玄朔は、首を横に振った。
「助けられへん命もある。
それが戦や」
玄朔は、布をめくり、
兵の顔をそっと覆い直した。
「やよい。
触れてみい」
「え……?」
「死んだ人の体や。
触れたこと、ないやろ」
やよいは、震える手を伸ばした。
指先が、兵の手に触れた。
(……冷たい)
魚の冷たさとも、
雪の冷たさとも違う。
“生きていない冷たさ”だった。
やよいの目から、
ぽろりと涙が落ちた。
「なんで……
なんで死んでしまうんですか……」
玄朔は、やよいの肩に手を置いた。
「死はな、
生きてる者のそばに、
いつも静かにおるんや」
「……怖いです」
「怖がってええ。
怖がらん医者は、
人を救えん」
やよいは、涙を拭った。
(怖い……
でも、逃げたくない)
◆ 御膳所が“死の通り道”になる
その日、
御膳所の前を、
何度も何度も板が通った。
負傷者。
そして、動かない者。
「やよい、こっち手伝え!」
お澄が呼ぶ。
「布、もっと裂いて!
湯、足らんで!」
「はい!」
やよいは、
布を裂き、
湯を運び、
傷を洗い、
血を拭った。
(生きてる人の血は、温かい……
死んだ人の体は、冷たい……)
その違いが、
やよいの胸に深く刻まれた。
◆ 玄朔の“線”
夕刻。
負傷者の手当が一段落したころ。
玄朔は、
やよいを呼び止めた。
「やよい。
今日、おまえは何を見た」
やよいは、
少し考えてから答えた。
「……生きてる人と、
死んだ人の違いです」
玄朔は頷いた。
「どんな違いや」
「生きてる人は……
痛いって言います。
苦しいって言います。
助けてって言います」
やよいは、
布を握りしめた。
「死んだ人は……
何も言いません。
冷たいままです」
玄朔は、
やよいの目をまっすぐ見た。
「やよい。
医者の仕事はな——」
玄朔は、
土間に一本の線を指で描いた。
「この“線”より向こうへ行かせんことや」
「線……?」
「生きてる者と、死んだ者の境目や。
医者は、この線の手前で、
必死に踏ん張る仕事や」
やよいは、
その線を見つめた。
(わたし……
この線の手前で、
誰かを止められるようになりたい)
胸の奥で、
小さな火が、またひとつ灯った。
◆ 老いたやよいの一行
——あの日、
わたくしは初めて“死”に触れた。
冷たさは、
ただ冷たいだけではなく、
「もう戻らない」という重さを持っていた。
その重さを知ったとき、
わたくしは初めて、
“生きている”ということの温かさを、
心の底から感じたのである。
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