第七話 「冬の陣、腹の底から冷える日」
第七話 「冬の陣、腹の底から冷える日」
——これは、わたくし曲直瀬やよいが、
人は「腹が減る」というだけで、
心の底まで冷えてしまうのだと知った日の記である。
◆ 雪と、煙と、空の色
冬の大坂の空は、
もともとあまり明るくはない。
けれど、あの冬の空は、
いつもより、もうひとつ暗かった。
雪の色と、
焚き火の煙と、
遠くで燃える陣幕の灰とが、
ごちゃごちゃに混じって、
空の色をにごらせていたからである。
「よう降るなあ……」
与兵衛が、御膳所の小さな窓から外を見て言った。
「こんな日は、兵らの足、よう動かんで」
宗右衛門が、火床に炭を継ぎ足しながら応じる。
「足だけやない。
腹もや」
やよいは、火の前に座って、
冷えた指をこすり合わせた。
どん……
どどん……
外からは、相変わらず鉄砲の音が響く。
雪のせいか、音が少し鈍くなっていた。
(今日も、誰か倒れてるかもしれへん……)
そう思うと、
やよいの腹の底まで、冷たいものが降りていくようだった。
◆ 「量」を減らせ、という命
その日の朝、
御膳所にひとつの命が下った。
「兵の飯、量を減らせ、やと……?」
宗右衛門が紙を握りしめ、眉間に皺を刻む。
「なんでですか!」
真っ先に声を上げたのは、お梅だった。
「戦やのに、飯減らしたら倒れますやん!」
紙には、淡々とした筆で書かれていた。
——兵糧、想定より減少。
——備蓄を長持ちさせるため、
一人あたりの飯の量を減ずること。
差出人の名は、
片桐且元であった。
「……仕方ないわな」
お澄が、低い声で言った。
「食べ物が、もう、前ほど残ってへんのやろ」
「せやけど……」
お梅は唇を噛む。
やよいは、紙を覗き込んだ。
「“殿の分は、据え置くこと”……」
小さく書き添えられた一行が、
やよいの目に刺さった。
(殿様の飯は、減らさへん……)
頭ではわかっている。
城の主が倒れたら、戦は終わる。
だから、殿の体を守るのは当然だ。
けれど——
(ほんまに、それだけでええんやろか)
やよいの胸の中で、
何かが静かに軋んだ。
◆ 米と麦の「線」
「ほな、こうするか」
宗右衛門が、桶の前に立った。
ひとつは、白い米。
もうひとつは、麦と雑穀が混ざった米。
「殿の飯は、白い方。
兵の飯は、混ぜた方。
これは変えられん」
宗右衛門は、宗兵衛から渡された杓子を握りしめた。
「せやけど、その中で、
わしらが動かせるもんもある」
「動かせる?」
やよいが尋ねると、
宗右衛門はにやりと笑った。
「“線”や」
宗右衛門は、指で空中に線を引いて見せた。
「これが、殿様と兵の“線”。
こっちは絶対、越えたらあかん。
命令やからな」
それから、
米の桶と麦の桶を見比べた。
「せやけど——」
宗右衛門は、麦の方を指でぐるりと囲む。
「この中の“線”は、
わしらの匙加減で、
なんぼか動かせる」
与兵衛が、腕を組んだ。
「……具体的に、どうする気や?」
「飯の量は減らす。
けど、汁の具と油の量は増やす」
宗右衛門は、鍋を指さした。
「腹に溜まるもんは減る。
けど、力になるもんは、
なんとか増やす。
それなら——」
やよいは、息を呑んだ。
「命令は守ったまんま、
兵の腹を、少しは助けられるかもしれん」
お澄が、ふっと笑った。
「それが、あんたの“線”かいな」
「台所所の料理人はな、
口答えはでけん。
けど、“匙”で戦うんや」
その言葉は、
やよいの胸に深く刻まれた。
◆ 小台所の「一粒」の重さ
「やよい、見てみ」
お市が、やよいを手招きした。
小台所の片隅。
お市の前には、米粒が十粒ほど並べられていた。
「これ、何やと思う?」
「……お米です」
「せやな。
けど、今日はただの米と違う」
お市は、その十粒を、
指先で二つに分けた。
「こっちが“今まで”。
こっちが“これから”」
分けられた米粒は、
目で見てわかるくらい、数が違った。
「たったこれだけや、と思う?」
お市の声は静かだった。
「この“たったこれだけ”が、
百人、千人、万やと膨れたときに、
どんな差になるか。
想像できる?」
やよいは、米粒を見つめた。
その白さが、
急に重たく見えた。
「……できひんです」
正直に言うと、
お市は、少しだけ微笑んだ。
「正直でよろしい。
せやから、よう見とき」
お市は、米粒をつまみ上げ、
掌の上で転がした。
「この一粒も、
誰かの腹を満たすはずやった。
それが、今日からは満たされへん。
それでも——」
お市は、顔を上げた。
「わたしたちは、“減らす匙”と、
“増やす匙”の両方を持たなあかん」
「増やす……匙?」
「さっき、宗右衛門様が言うたやろ。
汁の具増やすとか、そういうことや」
お市は、やよいを見据えた。
「やよい。
あんたは“ずるい”と思う舌を持ってる。
せやけど——
その“ずるい”を、
ただ愚痴にするか、工夫に変えるかは、
自分で決めるんやで」
(お市さんは……
ずるいと思わへんのやろか)
喉まで出かけた言葉を、
やよいは飲み込んだ。
◆ 賄いが変わる
その夜。
いつもの「賄い」の鍋の中身も、変わった。
「今日から、賄いも兵と同じや」
宗右衛門は、
鍋に入れる米の量を、少し減らした。
「えー……」
与兵衛が、わざと大きな声を出す。
「わしら、こんだけ働いとるのに……」
「文句言うんは勝手や。
でもな——」
宗右衛門は、鍋をかき混ぜた。
「わしらだけようけ食うて、
兵が腹空かして戦場に立っとると思うたら、
飯、喉通るか?」
与兵衛は、口をつぐんだ。
やよいも、
しゃもじを握る手に力を込めた。
(兵の人らと同じ鍋、同じ薄さ……)
やよいは、椀を口に運んだ。
薄い。
たしかに薄い。
けれど、不思議と、
いつもより重たい味がした。
(これが、戦の味なんや)
◆ 「寒さ」は、腹から来る
その夜、
やよいは布団の中で、なかなか眠れなかった。
外からは、
まだ遠くで鉄砲の音がする。
腹の中は、じんわりと空っぽだ。
(お腹、空いたな……)
小さな声でつぶやいた自分を、
自分で恥ずかしいと思った。
(兵の人らは、もっと空いてるかもしれへんのに)
でも、
空いているものは、空いている。
その空っぽさが、
じわじわと胸の方までせり上がってきた。
(なんでやろ……
お腹空いてるだけやのに、
心まで寒い)
やよいは、
布団の中で膝を抱えた。
(もし……
この寒さが続いたら、
もし、何日も何日も続いたら——)
◆ 玄朔と、塩の話
翌日。
負傷者の手当のために、
玄朔が再び御膳所に姿を見せた。
手当がひと段落したあと、
玄朔は、鍋を覗き込んだ。
「兵の汁か」
「はい。
昨日から、飯の量が減りまして」
宗右衛門が答えると、
玄朔は鍋の湯を少し掬い、舐めた。
「塩、控えたな」
「ええ。
あんまり喉渇かしたらあきませんさかい」
玄朔は、ふむ、と頷いた。
「理にかなっとる。
せやけど——」
玄朔は、ふとやよいを見た。
「おい、曲直瀬の娘」
「は、はい!」
「おまえの舌で、どう思う?」
突然の問いに、
やよいは目を瞬いた。
「……薄いです。
けど、
薄いままの方が、
兵の人らには、楽かなって思いました」
玄朔の目が、少し細くなる。
「楽?」
「お腹は空きますけど、
しんどいときに、濃い味は……
しんどさを、余計に感じる気がしました」
玄朔は、わずかに口元を緩めた。
「“楽”か。
ええ言葉や」
玄朔は、鍋の縁を叩いた。
「医者の薬もな、
効きすぎたら、余計にしんどい。
ほどほどに効いて、
飲んだ人が“ちょっと楽やな”と思えるくらいが、
いちばんええ」
やよいは、玄朔の横顔を見つめた。
(この人の言う“楽”は、
ただしんどくない、いう意味やない)
「おまえ、腹が減ると、どうなる」
玄朔の問いに、
やよいは少し考えてから答えた。
「……不安になります」
玄朔は、即座に頷いた。
「せやな。
腹減ると、人は不安になる。
不安になると、
ろくなこと考えへん」
玄朔は、鍋を名残惜しそうに見つめた。
「兵の腹が空いて、
心まで冷えたらあかん。
せやから——」
玄朔は、宗右衛門を見た。
「そこの料理頭。
塩は控えて正解や。
その代わり、味噌と、生姜を増やせ」
「生姜、ですか」
「体の芯を温める。
塩の代わりに、そいつで“楽”にしてやれ」
宗右衛門の顔に、ぱっと光が差した。
「なるほどな……
料理と薬、一緒やなあ」
やよいは、その会話を聞きながら、
胸の奥で、何かが一本に繋がるのを感じた。
(料理は、体を動かすためのもんやと思ってた。
でも——
心を“楽”にするもんでも、あるんや)
◆ 老いたやよいの一行
——あの冬の、薄い汁の味を、
わたくしは今も舌の奥に覚えている。
塩を控えた味噌汁に、
少しだけ多めの生姜を利かせた味。
それは、決して「うまい」とは言えないが、
「楽になる」味であった。
医の道に入ってから、
わたくしは何度も薬を調合したが、
そのたびに、あの冬の鍋を思い出すのである。
人を救うとは、
豪勢なことではなく、
「せめて、これくらいは」という匙を、
何度も何度も差し出すことなのだと——。
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