第六話 「冬の陣、火の粉が台所に降る」

第六話 「冬の陣、火の粉が台所に降る」


——これは、わたくし曲直瀬やよいが、

「戦」は城の外だけで起こるものではなく、

御膳所の土間の上にも、

静かに、しかし容赦なく降ってくるのだと知った日の記である。


 


◆ 鳴りやまぬ音


慶長十九年 冬。

朝から、大坂城の空気が違っていた。


どん……

どん、どん……


遠くのどこかで、

太鼓とも、雷ともつかぬ音が鳴っている。


「やよい、耳塞いだらあかんで」


宗右衛門が、火床の前で言った。


「これはな、太鼓やない。

 鉄砲や」


「……鉄砲」


「徳川の軍勢が、もう城の外まで来とる。

 今日からは、毎日、この音や」


やよいは、釜の湯気の向こうに広がる闇を想像した。


(ほんまに……戦、始まってしもうたんや)


 


◆ 御膳所の「いつも通り」と「いつもじゃない」


不思議なことに、

御膳所の一日は、形だけ見れば、いつもと同じだった。


大台所では米を研ぎ、

小台所では菜を刻み、

味見所では汁を啜る音がする。


ただ、ひとつ違うのは——

誰も、ひとことも無駄口を叩かないことだった。


「やよい、水」


お澄の声も、いつもより低い。


「はい!」


やよいは、桶を抱えて走る。

土間を蹴る足が、いつもより重く感じられた。


(外では、人が倒れてるかもしれへんのに……

 わたしらは、いつもと同じように飯を作ってる)


そう思うと、胸の奥がざわざわとした。


 


◆ 「兵の飯」と「殿の飯」


「やよい、これ見てみ」


宗右衛門が、大台所の隅に並んだ桶を指さした。


片方には、白く艶のある米。

もう片方には、少し茶色がかった、粒の混ざった飯。


「こっちが、殿様の飯」

「こっちが、兵の飯や」


「……色が、違う」


「殿様のは白米。

 兵のは、麦や雑穀混ぜたやつや」


宗右衛門は、わざとらしく笑ってみせた。


「世の中、ようできとるやろ。

 偉い人ほどええもん食うて、

 戦ん中で一番ようけ斬り合う兵は、

 腹ん中ぎゅうぎゅう言わしながら走り回る」


「ずるいです」


やよいの口から、思わずこぼれた。


「ずるい?」


「はい。

 命張って戦う人にこそ、

 いちばん、ようさん食べてほしいです」


宗右衛門の目が、細くなった。


「やよい」


「はい」


「それを“ずるい”と思う舌は、ええ舌や」


「え?」


「殿の飯も、兵の飯も、

 どっちも、同じように重うて、

 同じように尊いって感じる舌や」


宗右衛門は、米の入った桶の縁をぽんと叩いた。


「おまえの舌はな、

 偉い人の舌やない。

 “人の側”の舌や」


その言葉は、

やよいの胸の奥で、じんわりと熱を持った。


 


◆ 火の粉が降り始める


昼過ぎ。

外の音が、少しずつ近づいてきた。


どん……

どどん……


「城壁近いなってきとるぞ」


与兵衛が、窓の外に目をやりながら言う。


「わかるんですか」


やよいが尋ねると、

与兵衛は鼻で笑った。


「腹でわかるわ。

 鉄砲の音は、腹ん中まで響くんや」


そのとき——


ずしん、と、

今までよりもひときわ大きな音が鳴った。


「……今の、なに?」


「大砲やな」


宗右衛門が、静かに答えた。


「石垣、どこかやられたかもしれん」


その言葉と同時に、

御膳所の天井から、ぱらぱらと砂が落ちてきた。


「きゃっ!」


お梅が悲鳴を上げる。


「大丈夫や! まだ崩れん!」


宗右衛門が声を張る。


「やよい! 火んとこ離れるな!

 釜ひっくり返したら、それこそ地獄や!」


やよいは、思わず鍋の柄を掴みしめた。


(怖い……

 けど、ここから逃げたらあかん)


 


◆ 初めて目にする「戦の傷」


夕刻。

兵の汁を大急ぎで作り終えたころ、

御膳所の入口が、どたどたと騒がしくなった。


「負傷者運ぶで! 場所空けろ!」


御広敷の男たちが、

血で赤く染まった布を抱えて入ってくる。


「ここ、台所やで! なんで——」


お梅が叫ぶ。


「医者の部屋が足らん!

 ここなら湯もあるし、布もある!

 ええから、台拭きや手拭いを出せ!」


やよいは、息を呑んだ。


布の隙間から覗く腕。

血で濡れた指。

土と血の匂いが、

一気に御膳所になだれ込んできた。


(これが……

 戦の傷……)


「どけ! 通すんや!」


そのとき、

聞き覚えのある名が、男たちの口から漏れた。


「曲直瀬先生はまだか!」

「玄朔先生に知らせい!」


——曲直瀬。


やよいの胸が、はっと跳ねた。


(本家の先生……

 京都の曲直瀬玄朔様……!)


「やよい!」


お澄の声が飛ぶ。


「ぼさっとしなや!

 湯や! いちばんきれいな水、汲んで来て!」


「はい!」


やよいは、桶を掴んで走り出した。


 


◆ 「食べる場所」が「救う場所」に変わる


大台所の一角が、

急ごしらえの手当場になった。


釜の湯が、布を洗う湯になり、

味噌を溶くための桶が、

血を流すための桶になった。


「熱すぎる湯はあかん!

 ぬるま湯や!

 血、余計に出る!」


御広敷の男が怒鳴る。


「ここ、包丁しかないんやけど!」

「包丁で布裂け! 早よ!」


やよいは、手拭いを掴んで引き裂いた。


びりっ、と布の裂ける音が、

鍋の音より大きく感じられた。


(ここ、ほんまに……御膳所やろか)


ついさっきまで、

鯛の刺身を盛り付けていた台の上に、

今は血のついた腕が乗せられている。


「……っ」


やよいは顔を背けかけた。


そのとき——


「やよい」


宗右衛門の声が、

耳のすぐそばで囁いた。


「よう見とき」


「でも……」


「ええから見い。

 料理も、医も、

 “見いひんようにする目”では続かん」


やよいは、ゆっくりと顔を上げた。


 


◆ 血の色と、湯の色と


布を剥がされると、

兵の腕には、

鉄砲の弾がかすめたような傷があった。


肉が裂け、

赤黒い血がどろりと滲み出ている。


「うっ……」


思わず、息が止まりそうになる。


(肉って……

 こんな色なんや……)


「ぬる湯、かけろ!」


御広敷の男が叫ぶ。


やよいは、震える手で桶を傾けた。


湯が、傷口を流れる。

血が薄まって、

土間に赤い川ができた。


(さっきまで、

 この湯で、

 大根洗てたのに)


現実が、ぐらりと揺れた。


「やよい!」


お澄が、やよいの肩をぐっと掴んだ。


「倒れたらあかん!

 あんたの手は、まだ動く!」


「……はい!」


やよいは、歯を食いしばった。


 


◆ 「医者の名」が、はじめて胸に刺さる


騒ぎの中、

廊下の向こうから早足の音が聞こえてきた。


「曲直瀬先生! こっちです!」


「もう傷、見せてみい」


落ち着いた声が、

御膳所に響いた。


入ってきたのは、

細身の男だった。


年のころは四十前後だろうか。

深い皺が刻まれた眉間。

しかし、その目は澄んでいる。


「玄朔先生!」


御広敷の男たちが、一斉に頭を下げる。


——曲直瀬 玄朔。


やよいは、

耳の奥で何かが鳴るのを感じた。


(同じ……名前や)


玄朔は、

手早く傷口を見、

指で周りの肉を押し、

血の具合を見る。


「ふむ。

 まだいけるな。

 弾は深うない」


玄朔は手を洗い、

布を巻いていく。


その手つきは、

宗右衛門が魚を捌くときと同じくらい、

迷いがなかった。


「……大丈夫や。

 生きる方の傷や」


そのひと言で、

兵の顔に、ほんの少しだけ色が戻った。


 


◆ 「食」と「医」が、一本の線で繋がる


騒ぎが一段落したころ、

玄朔は、ふとやよいの方を見た。


「おまえ、名前は?」


「……曲直瀬やよいと申します」


玄朔の眉が、わずかに動いた。


「曲直瀬。

 どこの曲直瀬や」


「大坂の町の……

 末の方です」


玄朔は、やよいをじっと見つめた。


その目は、

傷を見ていたときよりも、

少しだけ柔らかかった。


「さっき、湯をかけておったな」


「はい……」


「熱すぎなんか、ぬるすぎなんか、

 よう見ておった。

 あれは、ええ手や」


やよいは、思わず顔を上げた。


「……わたし、怖かったです。

 けど……

 見えへんふり、したないと思いました」


玄朔の口元が、わずかに緩む。


「ほう。

 それなら——」


玄朔は、やよいの手を、

一瞬だけ、そっと握った。


「おまえには、

 “医の手”があるかもしれんな」


その言葉は、

やよいの胸に深く深く刺さった。


(医の……手)


今まで、

「料理の手」になりたいと思っていた。

宗右衛門のように、

兵の腹と殿の腹を支える手になりたいと思っていた。


けれど——

玄朔の目を見た瞬間、

やよいの胸の中に、

もう一本、違う道が生まれた。


(いつか——

 この人みたいに、

 傷を見て、“生きる方の傷や”って言えるように、なりたい)


 


◆ 老いたやよいの一行


——あの冬の日。

御膳所の土間に広がった血の色と、

湯気の向こうに揺れる玄朔様の横顔を、

わたくしは今もはっきりと思い出す。


あの日から、

わたくしの中で「台所」と「医者」のあいだに、

一本の細い橋がかかった。


その橋を渡るには、

まだ何年も、何十年もかかったけれど——

はじまりは、

確かにあの冬の御膳所の隅であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る