第五話 「冬の陣の足音」

第五話 「冬の陣の足音」


——これは、わたくし曲直瀬やよいが、

大坂城の空気が“料理の匂い”から“戦の匂い”へと変わった瞬間を、

はっきりと感じた日の記である。


 


◆ 大坂城に、冷たい風が吹く


慶長十九年(1614)冬。

大坂城の石垣に、冷たい風が叩きつけていた。


「徳川が動いたらしいで」


御膳所に、そんな噂が走ったのは、朝の仕込みの最中だった。


「ほんまかいな」「いよいよか……」


御料理人たちの顔が、火の赤さとは違う色に染まる。


やよいは、薪を運びながら耳を澄ませた。


(戦……)


その言葉は、まだ十歳の胸には重すぎた。


 


◆ 御膳所に“戦の献立”が下る


昼前、御膳所に一人の男が現れた。


大野治長(おおの はるなが)。

豊臣家の重臣であり、淀殿の側近である。


治長は、宗右衛門の前に立つと、

短く、しかし重い声で言った。


「今日から、兵糧の準備を増やせ。

 兵の数が増える。

 殿下(秀頼様)よりの御下知である」


御膳所の空気が、一瞬で張りつめた。


「……戦、始まるんですか」


お梅が震える声で言うと、

治長は目を細めた。


「始まるかどうかではない。

 始まる前に、備えるのだ」


その言葉は、

御膳所の全員の背筋を伸ばした。


 


◆ 大台所が“兵糧所”に変わる


「よっしゃあ! 鍋増やすで!」


与兵衛が叫ぶ。


「米、三倍炊くで!」「味噌も足らん!」「桶もっと持ってこい!」


大台所は、まるで戦場の前線基地のようになった。


やよいは、宗右衛門に呼ばれた。


「やよい。

 今日からおまえは“兵の汁”の手伝いや」


「兵の……汁?」


「せや。

 戦ん中で、兵の命を一番つなぐんは、

 刀でも槍でもない。

 “温かい汁”や」


宗右衛門は、大釜を指差した。


「この汁が薄かったら、兵は倒れる。

 濃すぎたら、喉が渇いて動けん。

 塩加減ひとつで、生きるか死ぬかや」


やよいは、釜の湯気を見つめた。


(わたしの手が……

 誰かの命を支えるんや)


胸が、ぎゅっと熱くなった。


 


◆ 小台所にも“戦の影”


小台所では、お澄が献立表を広げていた。


「殿下の御膳は、いつも通り丁寧に。

 けど、兵の分は早よせなあかん。

 お市、盛り付けの順番変えるで」


「承知しました」


お市は、いつもの冷静さを保っていたが、

その指先はわずかに震えていた。


やよいは、その震えに気づいた。


(お市さんでも……怖いんや)


その瞬間、

やよいの胸に、

お市への“敵意”ではなく“仲間意識”が芽生えた。



その日の味見所には、

いつもと違う人物が座っていた。


片桐且元(かたぎり かつもと)。

豊臣家の重臣であり、

大坂城の政治を支える中心人物。


「殿下の御膳、拝見する」


山城守が膳を差し出すと、

且元は静かに箸を取り、

ひと口、ふた口と味わった。


「……よい。

 だが、兵の汁は、もう少し塩を控えよ。

 戦場では喉が渇く。

 水が足らぬと、兵は動けぬ」


宗右衛門が深く頭を下げる。


「心得ました」


やよいは、且元の横顔を見つめた。


(この人が……

 大坂城を動かしてるんや)


その威厳に、

やよいは思わず息を呑んだ。


 


◆ 賄いが“戦の味”になる


夜。

御膳所がようやく静かになったころ。


「ほな、賄い作るでー!」


与兵衛の声が響く。


今日の賄いは、

兵の汁の“余り”だった。


大根、里芋、菜の花、少しの鶏肉。

塩は控えめ。

だが、体に染みる味だった。


「……あったかい」


やよいは、椀を抱えたまま呟いた。


「これが、戦の味や」


宗右衛門が、火床に腰を下ろしながら言った。


「戦ん中で、兵が一番欲しがるんは、

 刀でも金でもない。

 “温かい汁”や。

 それが飲めたら、もう一歩、前に出られる」


やよいは、椀を見つめた。


(わたしの手で作った汁が……

 誰かの命を支えるんや)


その思いが、

やよいの胸に静かに灯った。


 


◆ 老いたやよいの一行


——あの冬の匂いを、

わたくしは今も覚えている。


大坂城の石垣を叩く風の音。

大台所の火の音。

兵のための汁の匂い。


あの日から、

わたくしは“料理”を越えて、

“命を支える仕事”をしているのだと、

はっきりと知ったのである。

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