第四話 鯛の腹に毒はあるか
第四話 鯛の腹に毒はあるか
——これは、わたくし曲直瀬やよいが、
はじめて「毒」というものの気配を、
はっきりと、肌で感じた日の記である。
◆ 大坂城に、重い客が来る
その日、大坂城は、朝からざわついていた。
「今日はな、偉いさんが来はるんや」
宗右衛門が、たき火の前で腕を組んだ。
いつもの豪快な笑いは消え、顔つきがきりりとしている。
「徳川の使者やとよ」
そう言ったのは、お澄である。
小台所の真ん中に立ち、
手拭で手をぴしりと拭いながら、低い声で続けた。
「豊臣のお城に、徳川のお使い。
ええ顔して飯出さなあかんけど……
腹ん中では、互いに何を思てるかわからん相手や」
やよいは、その言葉の意味が全部はわからなかった。
けれど、胸の奥がひゅうっと冷えるのを感じた。
(お客さんに、ご馳走出すだけちゃうんや……)
◆ 今日の主役は「鯛」
「堺屋ぁ!」
宗右衛門の声に、
大台所の入口から、どしんと男が現れた。
「お待たせしましたで」
堺屋宗兵衛。
大坂じゅうの魚を仕切る、魚屋の大将である。
その背には、大きな桶。
中には、水の中でまだぴくりと動く、
銀色の体がぎゅうぎゅうと詰まっていた。
「今日は、よう肥えた鯛が揃ろとります。
紀州沖で上がった上物でっせ」
桶の中から、宗右衛門が一尾を持ち上げる。
朝日を受けて、鱗がきらりと光る。
「これが……」
やよいは思わず声を漏らした。
(きれいや……)
丸い目。
しっかりと張った腹。
ずっしりとした重みが、見ているだけで伝わってくる。
「やよい、この鯛、持ってみ」
宗右衛門が、やよいの手に鯛を渡した。
「う、重い……」
十歳の腕には、その重みがずっしりとのしかかる。
「重いのは、よう肥えとる証拠や。
腹が張っとる。
けど——」
宗右衛門は、やよいの耳元で小さく言った。
「腹が張っとる魚は、ときに“持っとる”こともある」
「持っとる……?」
「腹ん中に、毒をな」
◆ 魚の毒と、人の毒
大台所の隅。
宗右衛門は、鯛をまな板に置いた。
「魚の毒いうんはな、
変な薬入れたとか、そういう話ばっかりやない」
包丁が、鱗を削る。
銀の粒が飛び、土間に散る。
「獲れた場所、季節、餌、
そういうもんで、腹ん中に“悪いもん”溜めとるときがある。
当たったら、腹壊す。
ひどいときは、それで命落とす」
やよいは、ごくりと唾を飲み込んだ。
(魚にも、毒がある……)
「せやさかい、
魚の目ぇ見て、腹の張り見て、
匂い嗅いで、手で触って、
“こいつは大丈夫か”て確かめなあかん。
わかったか、やよい」
「はい」
やよいは、鯛の目を覗き込んだ。
澄んでいる。
でも、その瞳の奥に、
何かを隠しているような気もした。
(人も……魚も……
見た目だけではわからんのや)
◆ 小台所が“戦場”になる
鯛の下ごしらえが終わると、
今度は小台所が慌ただしくなる。
「刺身はこれだけ。
焼き物に回す分をここ。
煮物に使うアラはこっち」
お澄が手早く指示を飛ばす。
お市がそれを受け、
手元の皿に鯛の身を並べていく。
「皮目を上に、尾をこちら側。
殿の皿は一番奥。
徳川のお客人の皿は、こちら」
その指先はまるで舞のように滑らかだ。
やよいは、そのうつくしさに見とれてしまいそうになる。
「やよい、ぼさっとしなや!」
お梅の声に、はっと我に返る。
「これ、拭いといて!
鯛の血、残ってたら臭うで!」
布巾を手に、やよいはまな板を拭う。
水、塩、鱗、血。
様々な匂いが混じって、鼻を刺した。
(ここで出す一皿一皿が、
さっきの徳川のお客さんの口に入るんや……)
そう思うと、
手が震えそうになる。
◆ 味見所で起こった“違和感”
昼前。
いよいよ、徳川の使者への膳が整った。
「味見所へ運べ」
宗右衛門の声に、
やよいは膳を両手で抱えた。
(絶対に、こぼしたらあかん)
一歩、一歩。
足の裏の感触を確かめるように歩く。
味見所の障子を、静かに開ける。
「失礼いたします。
御膳所より、味見の鯛の一皿をお持ちしました」
中に座っていたのは、
御広敷番頭・山城守であった。
武骨な顔。
眉が太く、目が鋭い。
けれど、その手つきは不思議と丁寧である。
「置け」
やよいが膳を置くと、
山城守は黙って箸を取り、鯛の身をひと切れ口に運んだ。
しばし、沈黙。
(どうやろう……)
やよいの胸は、どきどきと高鳴る。
「……ふむ。
腕は悪うない」
ほっとしかけた、そのとき。
「だが——」
山城守の瞳が、すっと細くなった。
「この匂いは、何や?」
◆ 「匂い」という、見えない疑い
「え?」
やよいは思わず口にしてしまった。
山城守は、鯛の身の表面をじっと見つめている。
鼻先をわずかに動かし、
それから、もう一切れを小さく噛んだ。
「味は悪くない。
塩加減も、火の通りも、よし。
だが、わずかに、川の匂いがする」
「川……?」
やよいは、朝の堺屋の言葉を思い出した。
——紀州沖で上がった上物でっせ。
(海の魚やのに、川の匂い……?)
「やよい」
山城守が、やよいを見た。
「おまえ、朝からこの鯛を見とったな。
何か、気づいたことはないか」
「……腹が、張ってました」
「どのくらいの張りや?」
「抱えたら、重うて……
中に何か、ぎゅっと詰まってるみたいでした」
それを聞いて、山城守はゆっくり頷いた。
「宗右衛門を呼べ」
◆ 鯛の腹を割る
大台所に、山城守の声が響く。
宗右衛門、お澄、お市、与兵衛、堺屋宗兵衛まで、
皆が集まった。
「この鯛の腹を割る。
全員、よう見とけ」
宗右衛門は、無言で包丁を取り、
鯛の腹に刃を入れた。
すう、と皮が裂ける。
ぷつ、と脂がはじける。
中から出てきたのは——
「……なんや、これ」
お梅が思わず後ずさる。
腹の中には、
どろりとした泥の塊のようなものが、
いつもより多く詰まっていた。
「川筋まで上がっとったんやな、この鯛」
堺屋宗兵衛が、低く言った。
「川上で、何か悪いもん食べたんかもしれまへん。
見た目も張りもようても、
腹ん中までは……」
「わしが見抜けなんだ。
すまん」
宗右衛門が、歯を食いしばった。
「宗右衛門様のせいちゃいます!」
堺屋が慌てて首を振る。
「これは、わしの——」
「ええねん」
宗右衛門は、堺屋の言葉をさえぎった。
「誰のせいとかやない。
今、わかったんは——」
宗右衛門は、静かにやよいを見た。
「やよいが“変や”って感じたことや」
「わ、わたし……?」
やよいは目を丸くした。
「さっき、腹の張りを聞かれたとき、
“ぎゅっと詰まってるみたいでした”て言うたやろ」
宗右衛門は、山城守を振り返る。
「山城守殿。
もしあんたが匂いを嗅がんかったら、
もし、やよいが腹の重さを気にせんかったら——」
山城守は、短く息を吐いた。
「徳川の使者に、この鯛が出ていたかもしれん」
場に、重い沈黙が落ちる。
毒を入れたわけではない。
しかし、腹の悪い鯛を出して、
もし相手が体調を崩したら——
「それでも、『毒を盛られた』言われるわな」
お澄が、ぽつりと言った。
「今の世の中や。
何が決め手になるかわからん」
◆ 「毒」は、薬にもなる
その日の夜。
御膳所がようやく静かになったころ。
やよいは、桶を洗いながら、
ふと宗右衛門に尋ねた。
「宗右衛門様。
毒って、そんなに恐ろしいものなんですか」
宗右衛門は、火床の灰をならしながら答えた。
「毒はな、恐ろしい。
けど——薬と紙一重や」
「薬……?」
「おまえ、曲直瀬の家の子やろ。
曲直瀬道三はんも、玄朔はんもな、
毒のこと、よう知っとる医者や」
やよいの胸が、どきりと跳ねた。
「毒は、人を殺す。
けど、その少し手前で止めたら、
人の病を追い出すこともある。
せやから“毒を知っとる医者”がええ医者なんや」
やよいは、朝の鯛の腹を思い出した。
どろりとした、重たい塊。
あの中に、
人の命を奪うものと、
人の命を救うもの、
その両方が混ざっているのかもしれない。
(料理も、毒も、薬も——
ぜんぶ“口から入るもの”や)
「やよい」
宗右衛門の声が、やわらかくなる。
「おまえの舌は、ええ舌や。
骨の流れも、腹の重さも、匂いの違いも、
きっと覚えられる」
「……わたし、もっとわかるようになりたいです」
やよいは、ぎゅっと拳を握った。
「毒も、薬も、
どこまでが“食べたらあかん”で、
どこまでが“体を楽にする”んか——
いつか、ちゃんとわかるようになりたい」
宗右衛門は、少しだけ驚いたような顔をした。
そして、ふっと笑った。
「ほう……
それは、料理人の言い分ちゃうな」
「え?」
「料理人はな、“うまいもん作りたい”て言うねん。
今のおまえの言葉は——」
宗右衛門は、火の粉を払って立ち上がる。
「“人を救いたい”言うてるように聞こえたわ」
◆ 老いたやよいの一行
——あの鯛の腹の重さを、
わたくしは今も忘れない。
あのとき、わたくしはまだ十歳で、
毒と薬の境目など、
何ひとつ知らなかった。
けれど、あの一日が、
わたくしを「食の台所」から「医の台所」へと
そっと押し出したことだけは、
今ならはっきりと言える。
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