第二話 御膳所の火と水


第二話 御膳所の火と水


——これは、わたくし曲直瀬やよいが、

大坂城の台所所という“戦場”のありさまを、

はじめて骨身に染みて知った日の記である。


大坂城の御膳所は、ひとことで言えば、

「城の腹を預かる町」であった。


火の音、水の音、包丁の音、男たちの掛け声、

女中たちの足音、器の触れ合う細かな響き。

それらが一日たりとも止まることなく続く場所——

それが、わたくしの新しい世界となった。


---


大台所という“火の国”


朝、まだ空が白むころ。

やよいは、薄暗い廊下を走っていた。


「曲直瀬やよい、参りました!」


声を張って簾をくぐると、

そこには、まるで別の国のような景色が広がっていた。


大台所——。


大鍋と大釜がずらりと並び、

炭火が赤々と口を開けている。

釜の中で湯がぐらぐらと煮え、

湯気が立ちのぼって梁に絡みついていた。


「おう、新入り、遅れず来たな」


宗右衛門が、まるで戦場の大将のような声で言った。


大台所には、男の御料理人たちが十人ほど。

その後ろに若い下働きが数多く控え、

米を研ぐ者、薪を割る者、桶を運ぶ者、

それぞれが迷いなく動いている。


「ここが、大台所や。

 殿様方の飯も、兵の汁も、ここから出ていく。

 火加減ひとつ間違えたら、腹を立てるのは殿様だけちゃう。

 兵の士気も落ちる。わかるか」


やよいは、こくりと頷いた。

熱気が、もう頬に痛いほどだった。


「やよい、まずは水や。

 台所はな、火と水で出来てる。

 水を知らん者に、包丁は握らせん」


宗右衛門はそう言って、

井戸端に立つ大きな桶を指さした。


---


水を知るということ


「この井戸水は冷たいやろ。けどな——」


宗右衛門は、柄杓ですくった水を指先に落とした。


「この冷たさが、どこまで続くか。

 桶に汲んだら、どのくらいで温んでしまうか。

 米を浸けるとき、魚を洗うとき、

 それを知らんと、ええ味は出せん」


やよいも、真似をして水に指を入れた。


ひゅっと息を呑むほど冷たい。

だが、ただ冷たいだけではない。

指先に、川の石を撫でたときのような、

きゅっとした感触が残った。


「……きれいな水や」


思わず漏れた言葉に、宗右衛門が目を細める。


「そうや。この城の水は、殿様の命に繋がっとる。

 水が濁ったら、腹も濁る。

 火と水を侮る者は、ここでは使いもんにならん」


やよいは、桶を両手で抱え、水場へと運んだ。

十歳の体には重い。

足が震え、腕がじんじんする。


(こぼしたら、叱られる……)


そう思うと、余計に力が入ってしまう。


「おい、新入り、足元見ろ!」


後ろから飛んだ声に、はっとする。

桶からわずかに水がこぼれ、

土間に丸い染みをつくっていた。


その染みを見つめるやよいに、宗右衛門が静かに言う。


「水はな、こぼした分だけ、味が薄なる。

 そういうことや。

 よう覚えとき」


叱責というより、教えであった。

けれど、やよいの胸には、

恥ずかしさと悔しさがじわりと広がった。


---


小台所という“手の国”


水を運び終えるころ、

小台所では女中たちの手が忙しく動いていた。


大台所が火の国なら、

小台所は“手の国”であった。


ここでは、盛り付け、味の仕上げ、

重ねる器の順番、箸の向き、

すべてが細かく決められている。


「新入りは、そこ。ここは小台所や。

 御膳に乗るものは、ひとつ残らず殿のお口に入る。

 手を抜いたら、すぐにわかるで」


そう言ったのは、中年寄のお澄という女だった。


背筋がすっと伸び、

言葉に無駄がない。

年の頃は四十に届くかどうかだが、

その眼差しには、台所所全体を見渡す力があった。


「名は?」


「曲直瀬やよいと申します」


「曲直瀬……薬と医の家やな。

 ふん、城では家柄より手やで。覚えとき」


お澄は、それ以上何も言わず、

やよいの前に小さな盆を置いた。


「これは?」


「香の物。大根の浅漬けや。

 これを、同じ厚み、同じ形に切ってみい。

 顔ぶれが揃うまで、御膳は出せん」


盆には、大根が数本。

塩と糀の香りが、ふわりと立ちのぼる。


やよいは包丁を握った。

昨日、鯛を捌いたときと同じ、あの感覚を呼び戻そうとする。


(骨の流れは、もうない。

 けど——)


大根の中にも、

目には見えない“筋”があるように思えた。


一枚、二枚、三枚——。


切りながら、やよいは気づく。

包丁の重みのかけ方で、

断面の白さが違って見える。

薄すぎれば透け、厚すぎれば重たい。


「……むずかしい」


思わず口にすると、

後ろから、あの声が落ちてきた。


「むずかしい、では済まされませんのよ。ここでは」


お市である。


---


お市という“鏡”


お市は、やよいの手元を覗き込んだ。


「見なさい。厚いのと薄いのと、ばらばら。

 これでは、殿のお口に運ぶ前に、

 わたくしたちが恥をかきます」


盆の上の大根を、指先でひとつひとつ弾く。

その所作までもが、どこか品を帯びていた。


「お市。新入りを責める暇があったら、

 あんたは御膳の順を見てきい」


お澄が低く言う。

だが、お市は退かない。


「中年寄様。

 ここは城でございます。

 大坂の町場とは違います。

 失敗は命取り——そう教えておられるのは、

 宗右衛門様や、中年寄様では?」


言葉は鋭いが、嘘はひとつもない。

だからこそ、やよいの胸に刺さった。


(わたしが切るものは、

 ただの大根ではない……)


大根は、殿様の口に入る。

その前には、毒見をする者がいる。

さらにその前には、食材を選び、火にかけ、水に浸す者がいる。


どこかひとつが狂えば、

命を落とす者が出るかもしれない。


やよいは、包丁を握り直した。


「やり直します」


小さな声だったが、

お市の眉が、わずかに動いた。


---


味見所という“境目”


その日の午後。

やよいは、思いがけない場所へ足を踏み入れることになった。


「やよい。

 味見所まで、この小鉢を運べ」


宗右衛門が、小さな膳を差し出した。

椀には澄まし汁。

具には、細く切った大根と、わずかな菜の花。


「これは……?」


「殿様の昼の一品や。

 まずは味見所で、毒見と味見をする。

 そこを通らんと、御膳には乗らん」


味見所——。


御膳所の一角、

障子で仕切られた小部屋が、それであった。


中には、御広敷番頭と呼ばれる男がひとり。

武家らしい厳しい顔つきだが、

手には箸が握られている。


「失礼いたします。

 御膳所より、味見の一品をお持ちしました」


やよいが膝をつき、膳を差し出すと、

番頭は無言で頷き、椀を手に取った。


まず香りを嗅ぐ。

それから、ごく小さく啜る。

舌に乗せ、少しのあいだ転がし、飲み込む。


「……よし。毒の気配はない」


それは、命を預かる者の言葉だった。


だが、番頭は続ける。


「だが——少し塩が勝ちすぎておるな。

 このままでは、殿のお体には重い」


やよいの背筋が冷たくなる。


(塩……)


宗右衛門に言われ、

やよいも朝から塩加減を見ていた。

だが、自分の舌では、まだ確かなところがわからない。


番頭は、やよいの顔を見た。


「おまえが作ったわけではあるまいが、

 御膳所の者は皆、舌を持たねばならぬ。

 毒を見抜く舌と、塩加減を見抜く舌と、

 どちらが欠けても務まらん」


やよいは何も言えなかった。

ただ、深く頭を下げた。


(いつか——

 わたしも、毒も塩も見抜ける舌を持ちたい)


その願いが、

後にわたくしを医の道へと導くことになるとは、

この日のわたくしはまだ知らなかった。


---


炎に備える台所


夕刻。

大台所では、兵のための汁が大量に作られていた。


「戦の噂が立てばな、

 まず先に忙しゅうなるんは、ここや」


宗右衛門が、大釜を見つめながら言う。


「腹が減った兵は、すぐに弱る。

 弱った兵は、すぐに死ぬ。

 戦ん中で、いちばんようけ命を左右するんは、

 刀やなくて、この釜かもしれんで」


ぐつぐつと煮える音が、

やよいの耳に響く。


(台所所は、戦場の隅にあるわけやない……

 ここも、戦の真ん中や)


そう思ったとき、

ふと、幼いころ母から聞いた言葉が胸によみがえった。


——曲直瀬の家は、本来は医の家や。

——人の命を見つめる家やで。


料理で命を支えること。

医で命を救うこと。


その二つが、

やよいの中で、まだ形にならぬまま、

うっすらと重なり始めていた。


---


終わりに/老いたやよいの一行


——あの頃のわたくしは、

火と水と塩の重さにおののきながら、

ただ必死に手を動かしていた。


大坂城の御膳所は、

わたくしにとって最初の“医の学校”でもあったのだと、

今になってようやく思う。


命を口から支えるということが、

どれほど恐ろしく、どれほど尊いことかを——

あの台所所の火と水が、

静かに教えてくれていたのである。

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