『大阪城台所所·やよい記』
velvetcondor gild
第一話 「大坂城に上がる日」
第一話 「大坂城に上がる日」
——これは、わたくし曲直瀬やよいが、
十歳の春、大坂城の台所所に奉公へ上がった日の記である。
慶長十九年(1614)。
大坂の町には、春の陽気とは裏腹に、
どこか張りつめた空気が漂っていた。
豊臣家と徳川家の緊張が高まり、
「いよいよ戦になるのでは」と人々は囁き合っていた。
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天満橋を渡ると、川風に乗って市場の匂いが流れてくる。
干した昆布、酒、味噌、そして朝に揚がったばかりの魚。
やよいは母の手を握りしめ、胸を高鳴らせた。
「やよい、ええか。
あんたの家は代々、薬と医の家系や。
けど、今は戦の世。
まずは城で働き、世の中をよう見ておき」
母の声は優しいが、その奥に不安があった。
曲直瀬やよいの家は、京都の本家から分かれた医家の末流。
しかし戦乱の影響で、医術を学ぶ余裕はなかった。
大手門をくぐると、石垣の高さに圧倒される。
太閤秀吉が築いた城は、まだ豊臣の威光を残していた。
だが、見張りの鉄砲足軽の目は鋭く、
城内の空気は重かった。
やよいは御膳所へ案内される。
そこは、戦国の世を生き抜くための“食の戦場”だった。
「おまえが新入りか。名は?」
「曲直瀬やよいと申します」
「わしは宗右衛門。御膳所の料理頭じゃ」
宗右衛門は堺の商家出身で、
秀吉の時代から台所所を支えてきた名料理人だった。
その目は厳しくも温かい。
「ここは武家の腹を満たす場所や。
包丁ひとつで命を左右することもある。
覚悟はあるか?」
やよいは小さな体で深く頭を下げた。
そのとき、背後から鋭い声が飛ぶ。
「宗右衛門様、新入りの娘に甘すぎますわ」
振り返ると、武家の娘らしい凛とした少女が立っていた。
「わたくしはお市。御膳所の筆頭女中です。
身分も教養もない者が務まるとは思いませんけれど」
やよいは胸が締めつけられた。
しかし宗右衛門は笑った。
「お市、腕を見てから言うんや。
台所所は身分より腕や」
その日の夕刻。
やよいは初めて包丁を握り、
宗右衛門の前で鯛を捌くことになった。
震える手。
冷たい魚の感触。
お市の冷たい視線。
だが、包丁を入れた瞬間——
やよいの中で何かが静かに目覚めた。
「……ほう。筋を外さず、骨の流れを読むとは」
宗右衛門の目がわずかに見開かれた。
お市も驚いたように息を呑む。
やよいは自分でも理由がわからなかった。
ただ、魚の体が「こう切れ」と語りかけてくるようだった。
その夜、宗右衛門はやよいに言った。
「やよい。おまえには“味の才”がある。
だが、この城はもうすぐ戦に巻き込まれる。
料理だけでは生き残れん。
命の重さを知ることになるやろう」
やよいは静かに頷いた。
その言葉の意味を知るのは、
翌年の夏——
大坂城が炎に包まれる、あの戦のときである。
——こうして、わたくしの大坂城での日々が始まった。
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