第5話 依頼(3/3)
今は、これ以上スカラベにこだわっていても仕方がない。
承諾を得て持ち帰り、後で改めて調べればいい。
来人は、机の上の有翼スカラベから、
意識を引きはがすように視線を逸らした。
「……部屋には、特に失踪の手がかりになりそうなものは見当たりません」
自分でも分かるほど、言葉が少し早かった。
「依頼どおり、ノートパソコンを調べた方がいいと思いますが――」
一瞬、喉が詰まる。
「……本当に、調べてもいいですか?」
祖父と祖母は顔を見合わせ、
短い沈黙のあと、祖父が口を開いた。
「お願いします」
背中をわずかに丸め、懇願するような声だった。
「この子のことが分かるなら……なんでも」
それで十分なはずだった。
親戚で、元警察官で、
今はデジタル遺品整理を生業にしている。
依頼相手としての条件は、すべて揃っている。
それなのに――。
来人の胸の奥に、理由の分からない抵抗が残っていた。
ノートパソコンに触れることそのものを、
身体が拒んでいるような感覚。
肩の上で、チカが小さく羽根を震わせる。
(マスター、バイタルに軽微な変動があります)
(ストレス反応を確認。ただし、原因は特定できません)
(……俺にも分からない)
来人は心の中でそう返し、祖父母に向き直った。
「お預かりします。何かわかり次第、すぐ連絡します」
その言葉が約束なのか、言い訳なのか、
自分でも判然としなかった。
事務所兼住居に戻ったのは、夕方を少し回った頃だった。
来人はデスクにノートパソコンを置き、深く息を吐いた。
電源ボタンに指を伸ばし――ほんの一瞬、止まる。
来人は、作業の手を止めずに言った。
「さっきの確認、助かった」
一瞬の間。
「……ああいうの、分かるんだな」
チカは、肩の上でわずかに首を傾けた。
「盗品かどうかの件ですか?」
「特別なことではありません」
「マスターが、直接言葉にしないときの話し方には、慣れていますから」
来人は、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。
「そうか」
それ以上、何も言わなかった。
(……おかしいな)
いつもなら、ためらうことはない。
他人の人生の残骸を覗く仕事だ。今さらだ。
だが、今回は違った。
来人は小さく首を振り、電源を入れた。
パスワードは設定されていない。
祖父母の話どおりだった。
ファイル、写真、ブラウザ履歴、SNSのログ。
一つひとつを、淡々と、機械的に確認していく。
そして、それを見つけた。
「……AIチャット?」
履歴の日付は、失踪の二日前。
特別なものではない。
誰でも使っている生成AIチャットだ。
だが、ログを追ううちに、
来人の視線は自然と吸い寄せられていった。
最初は、他愛のない会話。
学校のこと。
友達のこと。
眠れない夜の愚痴。
AIは、模範的な応答を示している。
友人であり、良き相談相手だった。
違和感はない。
――そして、ある地点で、流れが変わった。
来人のスクロールが、止まる。
そこに表示されていたのは、
問いでも返答でもなかった。
文として成立しているようで、
意味を掴めない言葉の列。
振り返る凝結と未聞
曲がらない眠り
黒く寄り添う地平線の呼吸
粒子をほどき続ける遺跡
「……なんだ、これは」
思わず声が漏れた。
詩のようにも見える。
だが、誰かに読ませるための詩ではない。
意味を持たない言葉が、ただ並んでいる。
AIのバグか――。
続きを確かめようと、
来人はスクロールを続けた。
文の切れ目も、終わりも、はっきりしない。
……これで終わりか?
次の行に視線を移した――その瞬間。
画面から、目が離せなくなった。
言葉が、意味ではなく形を作ろうとしている。
まだ曖昧だった輪郭が、ゆっくりと濃くなっていく。
「……これは……」
来人の喉が、勝手に動いた。
「ドアだ」
もう、それはドアだった。
「……開いていく……」
遠くで、かすかに声が聞こえた気がした。
だが、歪み、反響し、
チカの声かどうか判別できない。
指先の感覚が鈍くなる。
身体が重い。
瞼の裏で、黄金色の光の粒子が舞い始めた。
不思議な感覚だった。
恐怖は、ない。
――すぐそばに、その世界がある。
(マスター)
チカは、骨伝導とスピーカーの両方で呼びかけていた。
(脈拍上昇。血圧変動。視線固定)
(画面から目を離してください)
返事は、なかった。
だが、来人の意識は、
すでに言葉の向こう側へと触れかけていた。
ここではないどこかに、
もう一つの地平線が、開きかけている。
チカは即座にスマートグラスを鏡面モードへ切り替え、
外部映像を遮断した。
同時に、最大音量で警告を発する。
「マスター、しっかりしてください。
マスター、私を見てください」
反応はない。
キーボードに置かれた来人の手が、透けて見えた。
本来見えるはずのないキーが、
手の下に浮かび上がる。
チカは一瞬、自身のセンサーエラーを疑った。
だが、その間にも透明化は進行する。
指だったものが、手首へ――。
考えている時間はなかった。
説明不能でもいい。
今すぐ、確実に、
マスターをこの状態から引き戻す。
チカは最終判断を下した。
「マ……スターッ!!」
悲鳴に近い声が、部屋に響いた。
次の瞬間、
スマートグラスと接続されたケーブルが青白く発光する。
バチィッ!!
高圧電流がケーブルを通り、
来人の神経を叩く。
脳幹を直接刺激し、
引きずり込まれかけた意識を、
現実へと引き戻す。
来人の身体が大きく跳ね上がり、
椅子ごと床に倒れた。
スマートグラスはショートし、
ひび割れ、光を失う。
視界が急速にブラックアウトしていく中、
来人の耳に届いたのは、震える声だけだった。
「マスター……無事、ですか……?」
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