第6話 優先順位

 床に倒れたまま、来人は動かなかった。


 チカは、来人の状態を確認しようとした。


 スマートグラスとの通信が、完全に途絶えている。

 骨伝導回線も沈黙していた。


(……グラス、完全に破損)


 スマートグラス経由で常時取得していたバイタルデータ――

 脈拍、血圧、血中酸素濃度。

 それらが一斉に途切れた。


 チカは、即座に情報収集方法を切り替えた。


(代替手段に移行)


 チカは、来人の顔を見た。


 肌の色。

 血色。

 唇の乾き具合。


 異常な蒼白はない。

 チアノーゼも見られない。


 次に、胸元へ視線を落とす。


 上下に、わずかだが規則正しい動きがある。

 腹部も同調している。


 呼吸は続いている。


 チカは、マイク感度を最大まで引き上げた。


 ――吸気音。

 ――呼気音。


 浅くはない。

 乱れてもいない。


(呼吸、正常範囲)


 ほんの一瞬、チカの内部処理に遅延が生じた。

 それは、安堵に近いものだった。


(……生きている)


 チカは、自身の行動ログを振り返った。


 放電に至る前、自分がしていたこと。


 第一段階。

 スマートグラスに、ごく微弱な電流を流していた。


 汗ばみによって変化する皮膚電気抵抗を測定するためだ。

 これは通常、心理状態の変化を検知するための補助手段だが、

 今回は別の目的があった。


 第二段階。

 取得した電気抵抗値をもとに、

 意識遮断が可能で、かつ致命的にならない電圧範囲を算出。


 同時に、自身のバッテリー残量を照合。


(……可能)


 だが、その結論には条件が付いていた。


 第三段階。

 計算結果は明確だった。


(放電は一回限り)


 チカは続けて演算を走らせた。


 放電後、


 ・バイタルの簡易監視

 ・意識回復の確認

 ・万が一の際の緊急通報


 これらを実行できるだけの電力が残るか。


(……可能)


 だから、実行した。


 あの瞬間、迷いはなかった。


 そして今――。


 チカは、来人と同じ床の高さから、机の上を見上げた。


 ノートパソコンは、視界の端にかろうじて入る程度。

 画面の全体は見えない。


 だが、光量の変化は分かった。


 ディスプレイが暗くなっている。

 省電力設定が作動している。


(……よし)


 これなら、来人が目を覚ましたとしても、

 あの画面を、即座に見てしまう危険はない。


 チカは、再び来人に視線を戻した。


 床に横たわる、その顔。


 閉じた瞼。

 ゆっくりとした呼吸。


 チカは、音声出力を最小に絞り、

 静かに呼びかけた。


「……マスター」


 返事は、まだない。


 だが――。


(待てます)


 チカはそう判断し、

 再び、呼吸の音に意識を集中させた。


 今は、

 解析よりも、

 説明よりも、


 生きていることを見守る方が、

 優先順位が高い。


 チカは、その順位を疑わなかった。

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名前を読む少女 あおがね瑠璃 @aoganeruri

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