第54話

 魔王は、玉座に座ったまま、静かに頁を閉じた。

 

 一文字も読み飛ばしていない。

 一行ごとに、世界の歪みを測るように、時間をかけた。

 

 

「……厄介な血筋だな」

 

 低く、吐き捨てるような声。

 

 骨たちが一斉に、カタカタと身を強張らせる。

 

「ですが魔王様、あの少年――」

 

 一体の骨が、恐る恐る口を挟む。

 

「“世界の調停者”であるなら、

 お嬢様に害をなす可能性は――」

 

「ないとは言えん」

 

 即答だった。

 

 魔王は立ち上がる。

 

 黒髪の三つ編みが揺れ、

 煮えたぎるような赤黒い瞳が、鋭く細められる。

 

「だが――

 “守る存在”と定められた者ほど、

 無意識に周囲を壊す」

 

 

 調停者。

 

 世界が壊れすぎないための、安全装置。

 

 それはつまり――

 世界が、いつでも壊れ得ると判断している証拠でもある。

 

 

「……」

 

 魔王は、無言のまま歩き出した。

 

 向かう先は一つ。

 

 

 中庭。

 

 

 リリアは、噴水の縁に腰掛けていた。

 

 十三歳になった少女は、

 かつての無口な幼子とはまるで違う。

 

 薄い茶色の髪は、骨たちが丁寧に整え、

 小さな飾りがきらりと揺れている。

 

 表情は柔らかく、

 けれど、どこか不安そうだった。

 

 

「……お父様」

 

 魔王の気配に気づき、

 リリアが顔を上げる。

 

 その一瞬で。

 

 胸の奥が、ちくりと痛んだ。

 

(……これが、変化か)

 

 

「シオンのこと、だな」

 

 そう言うと、

 リリアは少し驚いた顔をしてから、こくりと頷いた。

 

 

「なんか……遠いの」

 

 ぽつり、と。

 

「近くにいるのに、

 前より、遠くなった気がする」

 

 

 魔王は、その言葉を噛みしめるように黙った。

 

 それは錯覚ではない。

 

 覚醒した調停者は、

 世界と常に“接続された”状態になる。

 

 無意識に、距離が生まれる。

 

 

「……リリア」

 

 珍しく、少しだけ声を和らげる。

 

「お前が悪いわけではない」

 

 

「うん」


 即答だった

 

 

(……この子は、いつもそうだ)

 

 痛みを、自分の中で処理してしまう。

 

 

「お父様」

 

 リリアは、空を見上げながら言った。

 

「シオンが、何か大変なのは分かる」

 

「でもね」

 

 

 少しだけ、笑う。

 

「私は、そばにいたい」

 

 

 ――ああ。

 

 やはり、そう言うか。

 

 

 魔王は、内心で深く息を吐いた。

 

(変な虫ではない)

 

(だが――

 可愛い可愛い娘を、

 “世界”が勝手に巻き込もうとしている)

 

 

 許せるわけがない。

 

 

「……いいだろう」

 

 低く、だが確かな声。

 

「ただし」

 

 

 リリアが、きょとんとする。

 

 

「シオン・アルテミスは、

 この城にいる限り、

 私の監視下に置く」

 

 

 骨たちが、

(ですよね)

(そうなりますよね)

 という空気で一斉にカタカタ頷く。

 

 

「えっと……」

 

 リリアは少し考えてから、にこっと笑った。

 

「お父様、心配性」

 

 

 ――その一言で。

 

 魔王の中の理性が、

 ほんの少しだけ、音を立てて崩れた。

 

 

(……心配して何が悪い)

 

(娘だぞ)

 

 

「……勝手に城を出るな」

 

「はーい」

 

 

 その返事が軽すぎて、

 また一つ、頭が痛くなる。

 

 

 魔王は踵を返した。

 

 これ以上ここにいれば、

 余計なことを言ってしまう。

 

 

 背後で、リリアが呼ぶ。

 

 

「お父様」

 

 

 振り向くと、

 少女は少しだけ、真剣な顔をしていた。

 

 

「ありがとう」

 

 

 その一言で。

 

 世界の調停者だろうが、

 運命だろうが、

 どうでもよくなった。

 

 

(……守る)

 

 

 魔王は、心の底で誓う。

 

 世界と戦うことになろうと。

 

 娘の幸せを脅かすものは、

 決して許さない。

 

 

 ――たとえそれが、

 彼女自身の大切な人であっても。

 

 

 嵐は、まだ始まっていない。

 

 だが、確実に。

 

 物語は、次の段階へ進み始めていた。

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