第5話

 その日の夜。


 リリアは、いつもより早く部屋を出された。


 着替えさせられたのは、少し古い服だった。

 サイズも、どこか合っていない。


 お下がり――という言葉が、頭に浮かぶ。


「……こちらへ」

 使用人の声は、必要最低限だった。


 視線は合わない。

 長い廊下を歩く。


 いつもは誰もいないはずの場所に、今日は人影があった。

 けれど、誰一人として声をかけてこない。


 まるで、最初から存在しなかったものを運んでいるみたいに。


 外は、すっかり暗くなっていた。

 夜風が、頬に冷たい。


 屋敷の裏手へと回される。

 そこは、普段立ち入ることのない場所だった。


「……待ちなさい」

 母の声がした。


 振り返ると、母が立っていた。

 豪奢なドレスを身にまとい、灯りに照らされている。


 その姿は、いつも通り美しい。


 けれど、その目は――リリアを見ていなかった。


「あなたは、もう必要ありません」


 淡々とした声。

 まるで、役目を終えた道具を処分するように。


「女で、才能もない」

「このまま置いておく方が、問題になるわ」


 世間体。


 その言葉を、母ははっきりとは口にしなかった。


 けれど、理由はそれだけだった。

 父は、最後まで姿を見せなかった。


 呼ばれてもいないのだろう。

 あるいは、最初から興味がなかったか。


 ――ああ。

 ――やっぱり。


 リリアの胸は、不思議と静かだった。


 怖くないわけじゃない。

 でも、それ以上に、納得してしまっていた。


「……行きなさい」

 母は、それだけ言って背を向けた。


 止める言葉も、迷いもない。


 振り返ることもなかった。


 使用人に促され、リリアは歩き出す。


 屋敷から、さらに奥へ。

 足元の地面が、次第に荒れていく。


 風の音が、強くなる。

 やがて、視界が開けた。


 そこにあったのは――崖だった。


 深く、暗く。

 下が見えないほどの断崖。


「……ここで、いい」


 誰かがそう言った。


 説明はない。

 確認もない。

 それが、答えだった。


 リリアは、崖の縁に立たされる。


 夜の闇が、口を開けて待っている。


 怖い。


 でも、それ以上に。

 ――私は、いらなかった。


 その事実だけが、静かに胸に落ちてきた。


 背中に、わずかな力を感じる。

 突き飛ばされる、ほどでもない。

 ただ、戻れなくなるだけの力。


 その瞬間。


 リリアは、ふと空を見上げた。

 星が、きれいだった。


 ――ああ。

 ――これで、終わりなんだ。


 小さな体が、闇へと落ちていく。

 王国は、その背中を見送った。


 それが、どれほど取り返しのつかない選択だったのか。


 まだ、誰も知らないまま。

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