第十話 残影


それは、特別な現場ではなかった。


夜明け前の路地。

転倒事故。

高齢男性、意識不明。


よくある。

報告書の文言が、自然と頭に浮かぶ程度には。


俺は無線を受け取りながら、

倒れている男の傍にしゃがみ込んだ。


呼吸は浅い。

脈は、まだある。


――三分。


なぜか、そう分かった。


救急車が来るまで。


間に合うか、

間に合わないか。


その境目が、

はっきりと見えてしまった。


不思議と、胸は騒がなかった。


焦りも、恐怖もない。


ただ、

「ああ、今回は――」


そこまで考えて、

俺は自分の思考に気づく。


――今回は?


いつから、

死を「回数」で数え始めたのか。


その瞬間、

背筋を冷たいものが走る。


視界の端で、

空気が、わずかに歪んだ。


黒い霧だ。


幻覚だと、

言い切れるほど短くはない。


意識が無い男の顔を見る。


まだ、生きている。


それでも、

もう結末を知っているような感覚が、

心の奥に広がりかけていた。


――慣れるな。


どこからか、

声がした気がした。




俺は強く瞬きをする。


膝に力を入れ、

立ち上がる。


「大丈夫ですよ。もうすぐ救急隊が来ますから。」


誰に向けた言葉かは、

自分でも分からない。


男か。

周囲か。

それとも、自分自身か。



サイレンが近づく。


その音を聞いて、

安堵に似た感情を覚えた。


――よかった。


その感情が、

まだ「人間のもの」であることを、

確かめるように。


黒い霧は、

いつの間にか消えていた。


だが、

確かにそこにあったという感覚だけが、

足元に、薄く残っていた。


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