第九話 引継

眠りに落ちる直前、

奇妙な感覚に襲われた。


音が、先に消えた。

次に重さがなくなり、

最後に時間の流れが止まる。


気づくと、

見覚えのある場所に立っていた。


どこでもない場所。

地面も、空も、境界もない。


――昔、何度も立った。


理由は思い出せないが、

懐かしいという感覚だけが残っている。


「久しぶりだな」


声がした。


振り向くと、

そこに“自分”が立っていた。


今より少し背が高く、

今より少し影が濃く、

目が、決定的に違う。


人間の目ではない。


その目は、

生きているものを見ていなかった。


死を、見ている目だった。


「……誰だ」


問いかけたつもりが、

声にならない。


影の自分が、

静かに笑う。


「もう忘れかけているか」


その言葉を聞いた瞬間、

胸の奥が、きしりと音を立てた。


忘れている。

何を?


「お前は、選んだ」


影の自分が言う。


「一人の女を、生かすことを」


頭の奥で、

何かがひび割れる。


横断歩道。

信号。

声を出した記憶。


――待て。


だが、

それ以上は思い出せない。


「彼女は、まだ無事か?」


影の自分が尋ねる。


なぜ、

その問いがこんなにも苦しいのか、分からない。


「……ああ」


そう答えた瞬間、

影の自分の輪郭が、

少し薄くなる。


「それでいい」


「それが、お前の罰であり、

 選択の結果だ」


俺は一歩、前に出た。


「お前は……俺なのか」


影は、首を振る。


「俺は、

 もう消える側のお前だ」


その言葉で、

はっきりと理解してしまう。


これは、再会ではない。


引き継ぎだ。


「覚えておけ」


影の自分が言う。


「お前は、

 人の死に慣れてはいけない」


「慣れた瞬間、

 もう一度、こちら側に戻る」


「それは、許されない」


影が、

さらに薄くなる。


「最後に一つだけ」


影の自分は、

確かに俺を見た。


「彼女には、

 最期を知らないままでいさせろ」


「それが、

 死神だったお前が

 人間になった理由だ」


次の瞬間、

世界が崩れる。


影の姿も、

音もなく砕けていった。



俺は、

署内の仮眠用ソファで目を覚ました。


雑談の声。

コーヒーの匂い。


そして、

現実の重さ。


胸に手を当てる。


鼓動はある。

呼吸もしている。


だが、

なぜか涙が一筋、こぼれていた。


理由は、

もう思い出せない。


ただ、

とても大切な誰かに

別れを告げた気がした。


椅子には、

制服が掛かっている。


生きている人間として、

俺はまた、目を覚ました。


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