第三話 交差


横断歩道の少し手前で、

立ち止まった。


朝の光は十分に明るく、

風も穏やかで、

特別なことなんて何もない。


そういう朝ほど、

人は気を抜いてしまう。


彼女は前を向いていた。

信号を見ているようで、

実際には何も見ていない目だった。


たまにいる。

身体はここにあって、

意識だけが、ほんの少し

別の場所に行っている人。


足を止める。


赤だな、と思う。

まだだな、とも。


その瞬間、

彼女のつま先が、わずかに動いた。


ほんの一歩分。

けれど、それで十分だった。


車は速かった。

減速する気配はない。


考えるより先に、

息が喉を通った。


「待って」


声に出たのかどうか、

正直、分からない。


口は動いた気がする。

でも、もしかしたら

心の中だけだったかもしれない。


彼女が振り返る。


視線が合った――

そんな気がした。


次の瞬間、

彼女は一歩、下がった。


それだけ。


ただそれだけで、

世界は何事もなかったように

また動き始める。


車が通り過ぎ、

風が遅れてやって来る。


胸の奥で、

小さく息を吐いた。


助けた、とは思わない。

助けられた、とも思わない。


ただ、

同じ時間に、

同じ場所にいただけだ。


それだけだ。


信号が青に変わる。


彼女は歩き出し、

別の方向へ進む。


もう、振り返らない。


こういうことは、

記憶に残さない方がいい。


意味を与えると、

重くなりすぎる。


それでも、

歩きながら、ふと考える。


彼女は今日、

少しだけ世界が

鮮明に見えるのだろうか。


もしそうなら、

それでいい。


それ以上、

何もいらない。


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