第3話 拒絶と逃走
茂みから飛び出したクロヴィスは、王族としての矜持も忘れ、泥だらけの地面に膝をついた。
彼の瞳には、前世でマリエールを絶望させた冷酷さは微塵もない。
そこにあるのは、蹂躙され、引き裂かれた祖国レヴィオンを救いたいと願う、若き騎士の悲痛なまでの渇望だった。
「我が名はクロヴィス! 願わくば、その御力を……いや、その御言葉を賜りたい! この国は今、敵国ハルガルドに焼かれ、民は明日の希望さえ失っている。私は、この国を立て直したいのだ! あなたのような奇跡を体現する方が現れたのなら、それは神がまだ我が国を見捨てていないという証ではないのか!」
彼の声には、嘘偽りのない誠実さが宿っていた。
今の彼は本気で、神の力を借りてでも民を救いたいと願っている。
「控えよ……。声を出すことも許さぬ」
クロヴィスは側近たちを鋭い手つきで制し、自らは泥濘も厭わず、静かにその場に両膝をつきました。
王族の矜持を捨て、一人の信徒として頭を垂れる姿。
しかし、その視線は地面を這いながらも、マリエールの存在を一寸たりとも逃すまいと、獲物を狙う蛇のように鋭く固定されています。
一方、マリエールは――。
(……最悪。最悪だわ!)
彼女の心臓は恐怖と、それ以上に激しい嫌悪感で早鐘を打っていました。
王子の顔を見た瞬間、前世の最期、火刑台の上で突きつけられた、あの冷酷な手紙の筆跡がフラッシュバックのように脳裏を駆け巡ったのです。
(どうしてここに彼がいるの!? 冗談じゃない、この男にだけは見られたくなかった……!)
彼女の額には、怒りと焦燥から本人の意思に反して玉のような脂汗が浮かびます。
(跪いている? 信仰の目で見ている? ふざけないで。その瞳の奥にあるのは、私を『救国の乙女』として祭り上げ、最後には都合よく使い捨てようとする薄汚い欲望よ。私は知っている。あなたのその『敬虔なフリ』の後に続く、地獄のような五年間の日々を!)
彼女にとって、王子の跪きは神聖な儀式ではなく、自分を再び呪縛しようとする蜘蛛の糸にしか見えませんでした。
(ここで捕まってたまるもんですか。今、リュシアン王家に関われば、私はまたあの『贅沢と傲慢の檻』に閉じ込められる。アルシエルの民を救うどころか、また彼らからパンを奪うための道具にされてしまう!)
マリエールは震える脚を叱咤しました。
(逃げるのよ、マリエール。今のあなたはただの農家の娘。神の使いなんかじゃない。……そうよ、あんな男に二度と私の人生を触らせてたまるものですか!)
彼女は一言も発さず、王子の呼びかけが届く前に、脱兎のごとく森の奥へと駆け出しました。
跳ねる泥が、前世で愛したどの絹織物よりも今は愛おしく感じられました。
ただ一刻も早く、あの金髪の王子の視界から消え去ることだけを願い、彼女は森の闇へと消えていきました。
しかし、その誠実な叫びこそが、マリエールの心に冷たい刃を突き立てた。
(……やめて。そんな真っ直ぐな目で私を呼ばないで!)
逃げるマリエールの背中で、怒りと悲しみの血管が激しく脈打つ。
(知っているわ。今のあなたは、本気で国を救おうとしているのでしょう。でも、その『志』を叶えるための手段として私を使い、私を贅沢で繋ぎ止めようとした結果、私たちはあんなにも醜く変わってしまった!)
前世の記憶が蘇る。
最初は「民のために」と語り合っていたはずの二人が、いつしか宝石の数や自分たちを崇める貴族の数にしか関心を持たなくなった日々。
(今のあなたが誠実であればあるほど、私は怖いの。また二人で、あの破滅への道を歩んでしまうことが。……あなたは変われても、私は変われないかもしれない。また宝石を与えられれば、それを当たり前だと思ってしまうかもしれない!)
マリエールは、クロヴィスの必死の呼びかけを振り切るように泥を跳ね飛ばして走った。
(私は、あなたとは歩まない。私は私自身のやり方で……独りで、アルシエルの民を救ってみせる!)
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