何でもいいから

シャーペン

輝かしい明日をください

 朝。グリーグの朝では、えらく静かで壮大な風景がイメージされるけれど、実際、眼前に展開される朝と言うのは地獄だ。ダンテの神曲こそが現代の朝そのものなのだと気づいたのは何年前のことだったか。しかしまぁ、いずれにせよ絶望ばかりが頭の中を駆け巡ることには変わりない。

「あぁ…起きたくない」

 起きてしまえば、何が始まるのか。そんな事は現代日本人、どころか社会人になっている全人類に分かることだろう。そう、労働が始まるのだ。

 嫌で嫌で仕方がない。多分、この世界で生きる大多数の人間はそう思っているはずだ。少なくとも、私はそう思っている。心底、心の底から、全身の細胞がそう思ってる。

「眠い…体痛い…頭も痛い…でもお金ない…」 

 1LDK、つまりワンルームマンションに住んでいる私には貯蓄というものが無い。理由は単純で明快で簡単、新卒な上に会社がブラックだからだ。ブラックなのはコーヒーだけにしてほしい。

「てかいま何時…?」

 となりで白く光るデジタル時計には、七時二分と書いてある。ちなみに、私が乗らなければならない電車の出発時間は七時きっかり。

 ということは、だ。

「大遅刻確定じゃ〜ん」

 喉から力なくふにゃふにゃの声を響かせた。

「はぁ、遅刻、そっかそっか。オーライオーライ」

 もうここまでくればいっそ清々しい。最早気持ちが良い、いまなら天高く舞い上がれそうなほどだ。何故かは分からない。分からないけど、今はそんな事はどうでもいいのだ。

「はぁ〜、よっと…」

 体を起こした私。

 そうだ、こんなときはお茶を入れよう。

 台所までホップ・ステップ・ジャンプのリズムを刻む。

「♪〜」

 洗い物も無く、何ともさっぱり綺麗で殺風景な台所に四季「春」は反響する。

「ん〜、と、あったあった」

 いつか、暇な時にでも飲もうと思った玉露。これを自分で入れて飲むのが夢だった。いつの間にか使わなくなった茶道具と一緒に、棚から取り出す。

「はぁ〜、抹茶から点てるのなんて久しぶりだなぁ〜」

 小学生の頃から習っていた茶道。そんな小さい頃から身近にあったものだから、最早自分の一部ですらあった。

 よく退屈に思われる茶道だけれど、私からすれば先生の作る茶は美味しかったし、作法を覚える事は、なんだか自分が貴族になった様な気分になれて嫌じゃなかった。しかしながら、社会人にもなれば茶を入れて楽しむ精神的余裕や時間などあるはずも無く、私はもう何ヶ月も茶を嗜んでいない。

「♪〜」

 南部鉄器のヤカンを弱火のガスコンロの上に乗せる。

 この湯が沸くのを待つ時間と言うのは、存外悪くないものだ。何というかこう、ソワソワする。別に湯が沸くのが楽しみとか、段々と出てくる白い煙が美しいからとか、そう言う訳では無いんだけれど。なんだか、犬が食事を前に待てされている気分に似ているかもしれない。そんな事を思いながら、ラ・カンパネラなんて歌ってみたり。

「あ、沸いた沸いた」

 白い蒸気を合図にして、火からヤカンを離す。

「よいしょっと」

 新聞を敷いてヤカンと茶道具を床に置き、正座する。

 フローリングの床に正座は、はっきり言って足が痛いどころの話ではないが、なんだか今は我慢できた。不思議。柔らかい畳の上と違って、確かに押しつぶされる筋肉と筋の痛みが有るのに、あの時と変わらない気持ちだ。

 静かで、心の中にも波一つ立たない。晴れの空、静かな湖、雄大な野原が眼前に広がるような、そんな気分…あぁ、そうだ。これこそ、グリーグの朝そのものだ。

 目一杯息を吸い込み、改めて息を整える。

「…」

 茶杓ちゃしゃくで茶葉を掬うと、茶碗の中へ落とす。これを二回繰り返し、お湯を入れる。そして、茶筅ちゃせんで細かい泡を点てれば…よし。

 ゆっくりと茶碗を持ち上げると、くるくると回して正面に向け、ゆっくりと口へ運んだ。

「美味しい」

 お茶特有の、仄かな苦味につられてやってくる、確かな甘さ。そして鼻に突き抜ける、そう、まるで大自然のなかで深呼吸をするような清々しさと心地よさを併せ持ったこの香り。懐かしい。先生に特別だと言われて入れてもらった時も、この香りがした。でも、あの人が入れたお茶はもっと優しい香りだったな…。

「はぁ」 

 息を吐くたびに幸せが溢れてきそうな、そんな気分。

 あぁ、でも

「…私、何やってるんだろう」

 ついに私は目覚めてしまった。

「早く会社に行かなくちゃいけないのに。無断で遅刻したなんて上司になんて言われることか…同僚達はいつまでも来ない私にイライラしてるのかな…早く昇進したいのにこんな事してる私って…」

 何なんだろう。冷静になればなるほど、波風一つ立たなかった心が荒んでいく。状況を見れば見るほど救いようがなくて、希望がなくて、真っ暗になっていく。どうしようも無いくらい。

 大体にして私はなんでお茶なんて入れようと思ったの?スーツに着替えないと、忘れ物を確認して、朝ご飯を買って、早く電車に乗らないと。早くしないと皆んなに迷惑がかかるよ?貴方の評価は地に落ちてしまうよ?社会人として当たり前の事も出来ないなんて、貴方は…

「早く…会社に行かなきゃ」 

 見えていた風景は、あの湖も野原も晴れの空も、何もかも現実では無い。ただの幻覚、見たくないものから目を反らした先に有っただけのものでしかない。そう、私はただ現実逃避をしていただけだ。逃避したところで変えられるものなんて何一つとして存在し得ないのに。

「あぁ…」

 輝かしい物を見てしまった反動、いや罰が私を襲う。呼吸が重くなって、後悔が思考を真っ黒に染めて、目頭がただ熱くなっていく。

 ただ昔を思い出したかった、少し楽しみを思い出そうとしていただけなのに、それだけなのにどうして私はこんな気分にならなくちゃいけないんだ。不幸だ最悪だもう嫌だ。

「…いってきます」

 誰も居ない部屋に、その声は虚しく消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

何でもいいから シャーペン @nitobe

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

参加中のコンテスト・自主企画