第8話 800万円の代償――すべてを失う人


 示談の方針は決定した。


 義父は震える手で、私が用意した「示談合意書」に署名と捺印を行った。

 一週間以内に、私の口座へ全額が振り込まれることが確約される。


「……これで、文句はないな」


 捺印を終えた義父は、十年は老け込んだように憔悴しきっていた。

 私は合意書を確認し、丁寧に鞄にしまう。


「ええ、ありがとうございます。入金が確認でき次第、警察への被害届提出は見送らせていただきます」


「……うむ」


 義父は重々しく頷くと、ゆっくりと視線を横に向けた。

 そこには、抜け殻のように座り込んでいる真紀子と、青ざめた顔の健二がいる。


「さて。次は“身内”の話だ」


 義父の声色が、一段と低くなった。


「健二。お前たちのアパートは今月で引き払え」


「えっ? 父さん、どういう……」


「聞こえなかったか? 土地を売るんだぞ。その補填をするには、お前たちの家賃などという無駄金を垂れ流している余裕はない。実家に戻ってこい。同居だ」


「ど、同居ぉ!?」


 金切り声を上げたのは真紀子だった。

 彼女は涙で汚れた顔を上げ、必死に首を振った。


「嫌よ! お義母さんと同居なんて絶対無理! プライバシーがないじゃない!」


「黙らっしゃい!!」


 義母の怒声が飛んだ。


「お前の不始末で、私たちの老後資金と土地が消えるんだよ! どの口がプライバシーなどと言うんだ! お前にはね、人権なんてないんだよ!」


「ひっ……」


「朝は五時に起きて朝食作り。日中はパートに出て、給料は全額私が管理して返済に充てさせてもらう。……私が死ぬまで、徹底的に“再教育”してやるから覚悟しな!」


 それは、事実上の「奴隷宣言」だった。


 真紀子は助けを求めて夫に縋り付いた。

「け、健二ぃ……なんか言ってよぉ!」


 しかし、健二は真紀子の手を振り払った。


「……無理だよ。父さんたちの言う通りにするしかない。離婚されたくなければ、言うことを聞くしかないだろ」


 夫からの見放し。

 絶望する真紀子に、私は最後の一撃を加えることにした。


「あ、真紀子のご両親なら、もう知ってるわよ」


「……は?」


「さっき電話しておいたわ。『娘さんがコレクションを破壊して、800万円の請求が発生している』って。叔父さん、電話口で泣いてたわよ」


 私は優しく、絶望の言葉を紡いだ。


「『勘当だ。二度と敷居を跨ぐな。先方の指示に従って、一生罪を償え』……だそうよ」


 カラン、と真紀子の手からスマホが滑り落ちた。


 実の両親からの絶縁。

 これで彼女は、逃げ込む場所をすべて失った。


 義父、義母、夫。

 三方向からの冷たい視線に囲まれ、彼女は小さく震え始めた。


「う……うわぁぁぁぁぁん!!」


 真紀子は顔を覆い、子供のように泣き叫び始めた。

 だが、誰も慰めない。


 私はその泣き声をBGMに、冷え切ったお茶を一口飲んだ。


 美味い。

 最高に、美味い。


 私の大切なドールたちが味わった痛みに比べれば、これくらいの地獄は生温いくらいだ。

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