第7話 逃走不能――責任の行方



 応接間を支配していたのは、息が詰まるような沈黙だった。


 820万円。


 その数字は、ただのインクのシミではない。

 彼らの生活を押し潰す巨大な岩となって、テーブルの中央に鎮座している。


「……け、警察」


 震える声で呟いたのは、義父だった。

 その目は泳ぎ、必死に現状を打破する算段を巡らせているのが分かる。


「警察沙汰にするのだけは、待ってくれんか」


「お義父さん!?」


 真紀子が叫ぶが、義父はそれを手で制した。


「被害届を出されたら、翔太は……『犯罪者』のレッテルを貼られることになる。それだけは避けたい。……健二の会社の評判にも関わる」


 義父は世間体を何よりも重んじる人間だ。

 孫が警察の厄介になるなど、死んでも許容できない恥辱なのだろう。


「ですが、示談にするにはこの金額が必要です」


「分かっている! ……分かってはいるが……!」


 義父はギリギリと歯軋りをした後、突然、その充血した目を真紀子に向けた。


 ドンッ!!


 拳がテーブルに叩きつけられ、茶碗が跳ねた。


「貴様ぁ!!」


「ひっ……!」


 真紀子が肩を跳ねさせて縮こまる。


「バールだぞ!? 孫がバールを持ち出して、親戚の家のドアを破壊していたんだぞ!? その間、母親のお前は何をしていたんだ!」


「そ、それは……久しぶりに玲奈に会って、話をしてて……」


「嘘をつくな! 玲奈さんは言ったぞ。『スマホをいじっていた』と! 子供が破壊音を立てている間、お前はスマホを見て笑っていたのか! この馬鹿女が!!」


 雷のような怒号が飛ぶ。

 義母もまた、般若のような形相で真紀子を睨みつけた。


「そうよ……! そもそもあなたが『子供のしたことだから』って軽く言うから、私たちも甘く考えていたのよ。蓋を開けてみれば何? 八百万? どうしてくれるのよ、この大金!」


 責任の押し付け合い。

 いや、一方的な断罪が始まった。


 真紀子は涙目で夫に助けを求めた。


「け、健二……助けてよ……私、悪くないよね? 知らなかったんだもん! そんな高いなんて知らなかったら、普通注意できないでしょ!?」


 健二はビクリと震えたが、力なく首を横に振った。


「……無理だよ、真紀子。バールは……流石に庇いきれない」


「なっ……!」


「それに、知らなかったって言うけど、玲奈ちゃんは鍵をかけてたんだろ? それを壊した時点で、金額がいくらかとか、そういう問題じゃないよ……」


 夫からの正論による裏切り。

 真紀子の退路は、完全に断たれた。


「……払う。払うしかないだろう」


 重苦しい沈黙の後、義父が呻(うめ)くように言った。


「土地を売る」


「土地!?」


「駅前の、あの駐車場にしている土地だ。あれを売れば、一括で用意できるはずだ」


 義父の決断に、私は内心で驚いた。

 「借金」や「裁判」という泥沼を嫌い、身を切ってでも早期解決を選んだらしい。


「……本気ですか、お義父さん」


「ああ。その代わり」


 義父は私ではなく、真紀子を睨みつけた。


「ウチの先祖代々の土地を失うんだ。……真紀子さん、分かっているな?」


「ひ、ひぃ……」


「お前が招いた種だ。金は一旦立て替えてやるが……その落とし前は、一生かけてつけてもらうぞ」


 真紀子は腰を抜かし、床にへたり込んだ。


 彼女は理解したのだろう。

 借金は、銀行にするよりも、自分を憎んでいる義両親にする方が、遥かに恐ろしいということを。


 金銭的な決着はついた。

 だが、真紀子への「罰」は、ここからが本番だ。

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