第6話 検索の地獄――数字は嘘をつかない
「……は、ち、ひゃく……?」
義父の口から、空気が漏れるような乾いた声が出た。
彼はファイルを掴んだまま、金縛りにあったように動かない。
痺れを切らした義母が、横からその紙面を覗き込んだ。
「なになに? いくらなのよ。八万二千円? それとも八十二万……えっ?」
義母の言葉もまた、途中で凍りついた。
老眼鏡の位置を直し、何度も、何度も桁(けた)を数え直している。
一、十、百、千、万、十万、百万――。
「は、八百二十万……えん……?」
その声が応接間に響いた瞬間、真紀子が吹き出した。
「ぶっ! あはははは! 何それ! 八百万!? 桁間違えてるでしょその紙! もー、玲奈ったら、ゼロ二つくらい多く打っちゃったの?」
真紀子は腹を抱えて笑っている。
彼女の常識において、人形とは数千円で売っているものだ。
「八百万円」という数字は、リアリティがなさすぎて冗談にしか聞こえないのだろう。
「……タイプミスではありません」
私は冷ややかに告げた。
「そして、私が作った書類でもありません。その印鑑を見てください。日本でも指折りのアンティークドール鑑定士による、正式な査定書です」
「嘘よ! そんなの、いくらでも偽造できるじゃない!」
真紀子はなおも食い下がる。
しかし、義父母の顔からは血の気が失せ始めていた。
彼らは「実印」の重みを、真紀子よりは理解している。
「詐欺だ……こんなの、詐欺だぞ!」
義父が震える声で叫んだ。
「人形に家一軒分の価値があるわけがない! 警察を呼ぶぞ!」
「ええ、どうぞ呼んでください。器物損壊の被害届も同時に受理してもらうことになりますから、手間が省けます」
私が即答すると、義父は言葉を詰まらせた。
ここで、私は視線を横に向けた。
オロオロしている真紀子の夫――健二に。
「健二さん」
「は、はいっ!?」
「お手元にスマートフォンをお持ちですよね? 今、この場で検索してみてください。私が嘘をついているかどうか、すぐに分かりますから」
私はファイルに記載されたドールの名称を指差した。
「『ジュモー トリステ』。あるいは『アンティークドール ブリュ 価格』。……さあ、どうぞ」
健二は怯えたように義父の顔色を窺ったが、義父もまた「……調べてみろ」と掠れた声で命じた。
健二の指が、画面の上を走る。
静寂。
柱時計の音だけが響く。
数秒後、健二の指が止まった。
「……あ」
彼の顔色が、みるみるうちに土気色(つちけいろ)へと変わっていく。
「どうしたのよ、健二。数千円だったでしょ?」
真紀子が能天気に尋ねる。
健二は震える手で画面をスクロールし、蚊の鳴くような声で読み上げ始めた。
「……十九世紀フランス、ジュモー社製……海外オークション落札価格……さん、さんまんドル……?」
「三万ドル?」
「今のレートだと……よ、四百五十万円……? こっちのサイトだと……五百万……?」
ガタンッ!
義母が持っていた湯呑みをひっくり返した。
「嘘……でしょ?」
真紀子の笑顔が引きつる。
「なによそれ。ネットの情報なんてデマばっかりじゃない! 健二、もっと安いのあるでしょ!」
「な、ないんだよ! そもそも売ってない! 銀座のアンティークショップのホームページが出てきたけど……『価格:要問合せ』とか『SOLD OUT:280万円』とか……そんなのばっかりだ……」
健二は泣きそうな顔でスマホをテーブルに置いた。
そこには、残酷なまでに高額な数字が並んでいる。
私は、呆然としている真紀子に向き直り、静かに告げた。
「真紀子。あなたがさっき乗ってきたピンクの軽自動車。あれ、新車でいくらした?」
「……え? ひゃ、百八十万くらい……だけど……」
私は壊れたジュモーの頭部を、彼女の目の前に突き出した。
「この子、一体だけでね……あなたの車が二台、買えるのよ」
「…………っ」
真紀子の口がパクパクと開閉する。
顔面から血の気が失せ、真っ白になっていく。
「さて」
私は冷徹に彼らを見回した。
「金額の正当性はご理解いただけましたね? では、支払い方法について話し合いましょうか」
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