第2話 侵入の一瞬、崩壊の始まり



 葬儀は滞りなく終わった。


 親族への挨拶回りや雑事に追われ、心身ともに泥のように疲弊して実家に戻ったのは、陽も落ちかけた夕刻のことだった。


「あー、疲れた。喪服って肩凝るのよねぇ」


 玄関でパンプスを脱ぎ捨てながら、真紀子が大きなあくびをする。

 その背中を見送りながら、私はふと違和感を覚えた。


 ……静かすぎる。


 あれほど騒がしかった翔太の足音も、ゲームの電子音もしない。


 嫌な汗が背中を伝う。

 私は靴を揃えるのもそこそこに、廊下を走った。


 目指すのは離れのコレクションルームだ。


「嘘……」


 部屋の前に立った瞬間、私の喉から乾いた音が漏れた。


 ドア枠が、無惨にめくれ上がっている。


 私が絶対の信頼を置いていたU字ロックは、根本のネジごと木枠から引きちぎられ、ブラブラと力なく垂れ下がっていた。


 さらに、南京錠の金具部分は不自然に歪み、強引にねじ切られた跡がある。


 ――これは、子供の力じゃない。


 床には、木片と共に、錆びついた『バール』が転がっていた。

 先端に付着した塗装片が、このドアをこじ開けるために使われたことを物語っている。


「あ……あぁ……」


 心臓が早鐘を打つ。

 指先が震えて、ドアノブにうまく力が入らない。


 祈るような気持ちで、半開きになったドアを押し開けた。


 ジャリッ。


 足裏に、何かが砕ける感触が伝わる。

 その瞬間、私の視界は絶望に染まった。


 そこはもう、私の知る「聖域」ではなかった。


 ガラスケースは倒され、粉々に砕け散っている。

 そして床一面に散らばっているのは――私の愛した「彼女たち」の破片だった。


「うそ、嘘よ……嘘だと言って……」


 私は崩れ落ちるように膝をついた。


 目の前には、つい数時間前まで優美な微笑みを浮かべていた『トリステ』の頭部が転がっている。


 磁器(ビスク)の肌は蜘蛛の巣状にひび割れ。

 美しいガラスの瞳の片方は粉砕され、空洞になった眼窩が暗闇を覗かせていた。


 ドレスは引き裂かれ、関節をつなぐゴムは切断され、手足があらぬ方向に曲がっている。


 他のブリュも、ジュモーも、例外なく破壊されていた。


 頭を踏みつけられたような跡。

 壁に投げつけられたような擦過痕。


 これは事故ではない。

 明確な悪意を持った「虐殺」だった。


「なによ、帰って早々うるさいわね」


 背後から、気だるげな声がした。

 振り返ると、ジャージに着替えた真紀子が、ポテトチップスの袋を片手に立っていた。


「……真紀子。これ」


 私は震える声で惨状を指し示した。

 真紀子はちらりと部屋の中を覗き込むと、悪びれる様子もなく肩をすくめた。


「ああ、それね。翔太がちょっとヤンチャしちゃったみたいでさー。でも玲奈が悪いのよ?」


「……私が、悪い?」


「だってそうじゃない。あんな厳重に鍵なんかかけるから。子供ってのはダメって言われると見たくなっちゃう生き物なの。あんたが隠すようなマネするから、翔太の好奇心を刺激しちゃったのよ」


 耳を疑った。

 謝罪の言葉どころか、責任転嫁。


 私の体内で、悲しみが急速に冷却され、鋭利な「怒り」へと変わっていくのを感じた。


「それで? 翔太くんは?」


「怒られると思って押入れに隠れちゃったわよ。可哀想に、怯えてたんだから。あんまりきつく叱らないであげてよね。悪気があってやったわけじゃないんだし」


「悪気がなければ、バールでドアを破壊してもいいの?」


「だーかーらー! 子供のやったことじゃない! 怪我もなかったんだし、形あるものはいつか壊れるって言うでしょ? 掃除くらいは手伝ってあげるからさ」


 真紀子は「あーあ、散らかった」と呟きながら、足元の美しいビスクの破片を、ゴミでも扱うかのように足先で避けた。


 カシュ、と小さな音がして、百年前の職人が魂を込めた指先が砕ける。


 ――ブチリ。


 私の中で、何かが決定的に切れる音がした。


「……そうね。形あるものは、いつか壊れるわね」


 私は涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。

 ポケットからスマートフォンを取り出す。


 手はもう、震えていなかった。


「え? なに写真撮ってんの?」


「記録よ。片付ける前に、現状を保存しておかないと」


 私は感情を押し殺し、淡々とシャッターを切った。


 破壊されたドアの鍵部分。

 転がっているバール。

 粉々になったガラスケース。

 そして、無惨な姿になったドールたちのクローズアップ。


「ふーん。まあ、記念撮影くらい好きにすれば? どうせガラクタ同然の古い人形でしょ。新しいの買ってあげるから、レシート出しときなさいよ」


 真紀子は鼻で笑い、リビングへと戻っていった。


 ガラクタ。

 新しいのを買う。

 レシート。


 その無知で愚かな言葉の一つ一つが、彼女自身を破滅させる証言になるとも知らずに。


 私は破壊されたトリステの頭部を、ハンカチで包むようにしてそっと拾い上げた。


 まだ、冷たい。


(ごめんね……痛かったわよね)


 心の中で謝罪する。

 そして同時に、冷徹な計算が脳内を駆け巡っていた。


 この子たちは、ただの「古い人形」ではない。

 一体で数百万円を下らない、世界的にも貴重な美術品だ。


 それを、あろうことか住居侵入と器物損壊という犯罪行為で破壊されたのだ。


「……新しいのを買ってくれるのね? 約束よ、真紀子」


 誰もいない部屋で、私は静かに呟いた。


 その「代償」が、彼女の人生そのものになるとは露ほども思わず。


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