聖女と勇者の寿命を待つ日々

 湿り気を帯びた夜風が心地いい。


 ――満天の星空。


 私たちは今、異世界の辺境に建つ、いびつな日本家屋の縁側にいた。星たちが私たちを見下ろしている。聖女としてこの世界に召喚される前、あの大都市の空では決して拝めなかった輝きだ。


「綺麗ですね」

「ああ……綺麗だ」


 勇者と呼ばれた男――カイルは、震える声でそう言った。


 かつては大剣を振るい、魔王の心臓を貫いたその腕は、今や枯れ枝のように細い。


 この家は、彼が私のために建ててくれたものだ。私が故郷を懐かしんで語った「おばあちゃんの家」の記憶。畳の匂いや、縁側という概念。彼は旅の合間に私の拙い説明を必死に書き留め、引退後に全財産を投じてこの「小さなお城」を作り上げた。


 本当は、西洋風の洋館に憧れがあったなんて言えない。彼は私のために、異国の建築を再現してくれた。


 けれど今、私はその自慢の縁側に座ることはできない。縁側の真横で車椅子の固い感触に身を任せ、ただカイルの隣に並んでいる。


「……最近な、頭の中がずっとかき回されているようなんだ」

「ええ、分かっています」

「視界がグラグラする。足が、自分のものじゃないみたいだ。医者は『パーキンソン病』だとか言っていたが……」

「ふふ、その病名は私の世界にもありました。……魔法では、治せないものです」


 ここでは元の世界の言葉が勝手に変換される。聞き覚えのある単語だということは、同じかよく似た症状なのだろう。


 聖女として召喚された時、私は魔法が万能だと思っていた。けれど、時間はどんな魔法よりも残酷だ。細胞の変質も、魂の摩耗も、治癒の魔法では押し戻せない。自己治癒能力を引き出せなければ、魔法も無力だ。加齢には勝てない。脳の出血も止めることはできれど、損なわれたものまでは戻らない。こうして麻痺は残り、自力では歩けなくなった。


 白く染まった彼の髪を、生ぬるい風がなでていく。


「正直に教えてくれ」


 カイルが、節くれだった手で私の手を握った。力が弱く、そしてひどく震えている。


「……俺を、恨んでいるか」

「どうして? あなたは世界を救った英雄ですよ」

「だが、お前には何も残してやれなかった。お前が一人で息子を育てている間も、俺は他の誰かのために剣を振っていた」


 胸が締め付けられる。


 赤ん坊を抱きながら、いつ帰るとも知れない彼の無事を祈った夜。世界を救ったあとも、彼が守っていたのは私ではなく、名もなき群衆だった。お金も必要最低限しか残さず、困っている人たちに寄付して回っていた。


 もし彼がもっと強欲であれば、今頃私たちは王都で使用人に囲まれた老後を送っていただろうに。


「……すまなかった。俺が不甲斐ないばかりに、お前をこんな寂しい場所に縛り付けて」


 息子は王都で家庭を築いている。「対話の鏡」で月に一度は会話をしているものの、カイルは震える手を隠し、「こっちは大丈夫だ。なんとかやっているよ」そう言って強がってみせる。私も穏やかに頷くだけだ。心配はさせたくないし、迷惑もかけたくない。


 私は、首から下げたペンダントをそっと指先でなぞった。


 若かりし頃は、片方が倒れればもう片方にすぐ伝わるようにと作られた魔道具を首から下げていた。今は、蓋を開ければ互いの古びた肖像画と、緊急通知の魔法陣が刻まれた小さな魔石が入っている。


 転倒は、老人にとって命取りだ。簡単に骨折するし、そのまま自力で起き上がれずに亡くなることも多い。


 もし彼が倒れたなら。もし彼に、寿命が訪れたなら。これを押せば、近くの村の診療所に合図が飛ぶ。それは「助けて」という信号であると同時に、私たち二人きりの生活が終わる合図でもある。


「そんなあなただったから、私は恋をしたんです」


 このあとに続ける言葉はいつも同じ。


『あなたと過ごせる今が、私は幸せですよ』


 そう言って、私も彼を縛ってきた。

 でも、そろそろ終わりにしなければ。


 私は震える声で、ずっと心に決めていた言葉を口にした。


「カイル、もう私を『白銀の園』に入れてください」


 彼が息を呑んだ。


 そこは、ここからもっとも近くにある療養施設だ。高い塀に囲まれた、主に老人用の施設。そこに入れば、食事も排泄も魔法で管理される。入居条件は一人で歩けないこと。


 そして……一度入れば二度と外へは出られない。それは暗黙の了解だ。老人用の施設とは、そういうもの。


「何を……何を言うんだ、リサ」

「あなたはもう、限界でしょう? 私を車椅子からベッドへ移動させるのもやっと。自分の足で歩くことさえ。……このまま二人で、共倒れになるのを待つのは嫌なんです」


 庭の畑は、彼の手が震えて鍬を握れなくなった日から、すっかり雑草に飲み込まれている。


 カイルの表情が見る間に崩れた。元々乏しくなっていた表情筋が、苦痛と拒絶で歪む。


「嫌だ……それだけは、絶対に嫌だ。俺はここで最後まで二人で暮らしたい」

「でも、このままでは、私はあなたの重荷に……」

「重荷な……ものかっ!」


 嗚咽が、彼の細い背中を揺らす。


「お前がいなくなったら、この家は何になる? 俺はここを俺たちの終の棲家にすると決めたんだ。俺が……本当に守りたかったのはお前だ。お前が笑っていられる世界を守りたかっただけなんだ。それなのに、俺は……最後まで、優先順位を間違えて……」


 彼のしわしわの手が、私の手をもう一度掴む。


 私が施設で安らかに死ぬことよりも、ここで自分と一緒に苦しみ、一緒に朽ち果てていくことを望んでいる。


 こんなにも、愛されていたんですね。


 人を救うのは得意なくせに、愛を伝えるのは下手な人だった。


「……溺れたら、藁でもなんでも掴まないと沈んでしまいますよ」

「俺はお前と沈みたいんだ」


 綺麗な終わりは、迎えられないかもしれない。


 心の準備をして、さようならと笑顔で別れることは無理そうだ。彼が転倒して自力では起き上がれず……救助を呼んで、私は半ば強引に施設へと引き取られる。そんな別れが訪れるのかもしれない。


 見上げる星空は、相変わらず冷たく輝いている。


「このまま、一緒に天に召されたら幸せでしょうね」

「……そうだな。本当に」


 遠くで、夜鳥が一度だけ鳴いた。


 綺麗な終わりは来ない。

 分かっているのに、私たちはここで天からの迎えを待ち続ける。

 

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